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ブックマーク / rodori.hatenablog.com (5)

  • 奴隷制がダメである8つの理由 - 学者たちを駁して

    古代ローマの不自由な労働 人間は労働する動物だ。そして、自分の労働力を自分のために利用するのは、現代では当たり前のことだ。でも、それがまったく当たり前じゃない社会がかつてはあった。古代の奴隷制社会のことである。 奴隷は、自分の「労働力」を自分のために利用することができない。自分のために働くことができない奴隷の「労働力」は、彼を「購入」し、「所有」する者のためだけに利用される。共和制末期のローマは、まさにそういう奴隷たちの「不自由な」労働を基盤にした社会だったし、少なくとも法律の上では「自由人」の労働が優勢だった帝政期のローマでさえ、奴隷労働はけっして無視できない比重を占めていた。 一人の人間を扶養する費用がそれほどかからない社会、“安い”値段をつけられた人間がそこら中にあふれている社会では、物ばかりか人間(奴隷)までもが商取引の対象になる。奴隷は、自分で歩くことができるので、物と比べて運ぶ

    奴隷制がダメである8つの理由 - 学者たちを駁して
  • 学者たちを駁して

    マックス・ヴェーバー――主体的人間の悲喜劇 (岩波新書) 作者:今野 元 発売日: 2020/05/21 メディア: 新書 マックス・ウェーバーはわかりにくい。とりわけ彼の政治的主張はわかりにくい。 ナチスの御用学者だった「カール・シュミットがマックス・ウェーバーの正統的な弟子であったという事実」を重く見て、ウェーバーをファシズムとの関連で論じようとするハーバーマスのような人たちがいる一方、フーコーのようにオルド自由主義者との関連にフォーカスすることでネオリベの先駆者としてウェーバーを理解しようとする人たちもいる。 試みに『政治書簡集』のページをパラパラとめくっていると次のような言葉が目に飛び込んでくる。 外見的立憲主義政党としての中央党に反対。および過去において皇帝に反対する議会の真の実力を涵養しようと努力しなかったし、また現に努力もしていないで、ただ皇帝の手から個人的なお菓子をもらおう

    学者たちを駁して
    akihiko810
    akihiko810 2015/01/15
    人文書中心の読書感想文
  • 本を読むことの暗黒面/ショウペンハウエル『読書について』を読む - 学者たちを駁して

    はじめに 世の中のほとんどの読書論は「は読まないよりも読んだ方がいい」、「を読んだ方が教養が身につき考えも深く豊かになっていく」という考え方、言わば読書に対するある種の性善説を前提にしてきました。 僕もそういう考え方に従い、今までそれなりにたくさんのを読んできました。「を読むことで、いつかは自分も世間一般の人があまり考え着かないようなことを考え着くことができるようになるはずだ」。「いつかは自分も…」そう自分に言い聞かせながら自分なりの読書道を歩んできました。けれども、そういう考えに対して真正面から直滑降で向かってくる影があります。これは身構える必要がありそうです。 ショーペンハウエルの『読書について』は、読書が持つ昼の顔、つまり読書の効用については正面からは何一つ述べようとはしません。むしろ著者がこのの中で何よりもまず読者の注意をうながそうとしているのは、を読むことの暗黒面、読

    本を読むことの暗黒面/ショウペンハウエル『読書について』を読む - 学者たちを駁して
  • ニセの問題の見分け方/ドゥルーズ『ベルクソンの哲学』について - 学者たちを駁して

    上手に問題を出す 答えを出すことよりも質問することの方が難しい。質問の仕方が不味ければ正しい答えを出せるはずもないし、答えが見つからずに悩んでいる時は質問の仕方がそもそも良くない場合が非常に多い。或る問題が一向に解決を見ないのは、答えばかり知ろうと焦るあまりに、問題を上手に立てることをおろそかしているからではないだろうか。 ちきりんでも室井佑月でも、なんか学校でいた「この問題わかんないから答え教えて! 難しいことわからないので答えだけでいいから!」っていう友達思い出すんだよねえ。お前、答えだけ聞いてわかったつもりになっても、なんでその答えになるか考えられないと意味ないだろう、みたいな。— 津田和俊@てっぽう撃つでぇ (@kaztsuda) 2015年1月6日 たとえ正しい答えを知ることができたとしても、その答えを出すに至るまでのプロセスを知らなければ、学生がよくやる一夜漬けのその場しのぎと

    ニセの問題の見分け方/ドゥルーズ『ベルクソンの哲学』について - 学者たちを駁して
  • 三島由紀夫の『暴力批判論』 - 学者たちを駁して

    1969年5月13日、東京大学教養学部900番教室内で、三島由紀夫と東大全共闘の間で討論会が開かれた。会場には約1000人の学生が集まり、その模様はその日のうちにTBSでも放送された。以下で論じる『美と共同体と東大闘争』はその討論の内容を収録した書物である。2時間25分にも及ぶこの討論のテーマは多岐に渡るがその主要なテーマの一つに「暴力」があり、両者の間で活発な議論が交わされた。「暴力」を語るにあたって三島由紀夫はそれ肯定する立場に立ち、「左翼」による無原則・無前提な暴力の否定が共産党による人民戦争(=暴力)の肯定を逆説的に帰結することを指摘し、それを非難している。 ⑴暴力否定は正しいか? 三島は無原則・無前提に暴力を否定しない。むしろ、彼は無原則・無前提の暴力否定に反対し、暴力を肯定する。なぜなら、無原則・無前提の暴力否定は、かえって暴力の性格をあまりにも普遍的にし、暴力の定義をあまりに

    三島由紀夫の『暴力批判論』 - 学者たちを駁して
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