ブックマーク / realsound.jp (3)

  • 宮台真司の『シン・ゴジラ』評:同映画に勇気づけられる左右の愚昧さと、「破壊の享楽」の不完全性

    「行政官僚制の日常」と「破壊の享楽」 『シン・ゴジラ』(7月29日公開/庵野秀明監督)は想像外に興味深い映画でした。『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』(2012年)以降の庵野秀明監督の不発ぶりに加え、特撮監督が『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』(2015年)で味噌をつけた樋口真嗣氏なのもあって、期待水準を高く設定していなかったこともあるかもしれませんが、間違いなくエキサイティングでした。 作は従来のシリーズと違って、ゴジラに主題的な重心がなく、かと言ってヒーローに焦点が当たる訳でもない。敢えて言えば「日の行政官僚制」が主人公で、そのパフォーマンスに焦点が当たります。その話は後で題にするとして、僕がこの作品を見る前に、どこに注目しようと思っていたのかについて話しましょう。キーワードは「破壊の享楽」になります。 この夏休み、僕の3人の子供たちは、AppleTVで利用できる定額制

    宮台真司の『シン・ゴジラ』評:同映画に勇気づけられる左右の愚昧さと、「破壊の享楽」の不完全性
    aniram-czech
    aniram-czech 2016/08/30
    "人々は<社会>から<世界>へと連れ出された結果、戦争映画が不可能になり、怪獣映画が残るでしょう。"
  • 宮台真司の『カルテル・ランド』評:社会がダメなのはデフォルトとして、どう生きるかを主題化

    <可能性の説話論>から<不可能性の説話論>へ 前編をおさらいすると、紀元前5世紀に2つの世界観が分岐します。一つは、社会も愛も、来は完全たり得るのに、何らかの悪や不条理の所為で不可能化してきた。もう一つは、社会も愛も、来は不可能なのに、何かか目眩ましになって、社会や愛が可能だと勘違いされてきた。 前者は<可能性の説話>。後者は<不可能性の説話>。グローバル化による中間層分解が帰結する先進国内の不全感と、蓄積されつつ隠蔽されてきた政治的怨念のグローバル化に伴う顕在化(テロ!)を背景に、冷戦体制終焉後は<不可能性の説話>が浮上しつつある事実を、話しました。 前編での予告通り今月は、社会に関する<不可能性>の宣べ伝えとして森達也監督『FAKE』とマシュー・ハイネマン監督『カルテル・ランド』を取り上げ、愛に関する<不可能性>の宣べ伝えとしてギャスパー・ノエ監督『LOVE』とアンドリュー・ヘイ監

    宮台真司の『カルテル・ランド』評:社会がダメなのはデフォルトとして、どう生きるかを主題化
    aniram-czech
    aniram-czech 2016/08/13
    いつ更新されるんだろうと待ってたらとっくに公開されていた。笑/「排除からの排除」、『コンビニ人間』もこれを描いていたように思う。
  • 宮台真司の『FAKE』評:「社会も愛もそもそも不可能であること」に照準する映画が目立つ

    可能性の説話論/不可能性の説話論 この1年ほど、映画批評の連載でテーマにしてきたことがあります。岩井俊二監督最新作『リップヴァンウィンクルの花嫁』(3月公開)のパンフレットにも詳述しましたが、近年の映画において、「社会はクソである」というモチーフが前面に出てきています。 「政治が悪いからクソだ」とか「社会的に恵まれない人がこんなにいるからクソだ」ということではなく、「そもそも社会はすべてクソなのだ」と。国籍も年代も問わず、映画監督がそのモチーフをどう表現するのか、ということがポイントになっています。 別の言い方をしましょう。映画小説などの表現には二つの対照的なフレームがあります。第一は、来は社会も愛も完全であり得るのに、何かが邪魔をしているので不完全になっているとするフレーム。不全をもたらす障害や悪の除去が説話論的な焦点になります。 第二は、来は社会も愛も不可能なのに、何かが働いて、

    宮台真司の『FAKE』評:「社会も愛もそもそも不可能であること」に照準する映画が目立つ
    aniram-czech
    aniram-czech 2016/07/11
    後編の『カルテル・ランド』編も楽しみ。"社会は本来輝かしいものであり得るのに、悪として名指し得る原因があって、そのせいでクソになっているというのではない。社会は社会であるだけでそもそもクソなのである"
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