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宮台真司の『カルテル・ランド』評:社会がダメなのはデフォルトとして、どう生きるかを主題化
<可能性の説話論>から<不可能性の説話論>へ 前編をおさらいすると、紀元前5世紀に2つの世界観が分岐... <可能性の説話論>から<不可能性の説話論>へ 前編をおさらいすると、紀元前5世紀に2つの世界観が分岐します。一つは、社会も愛も、本来は完全たり得るのに、何らかの悪や不条理の所為で不可能化してきた。もう一つは、社会も愛も、本来は不可能なのに、何かか目眩ましになって、社会や愛が可能だと勘違いされてきた。 前者は<可能性の説話>。後者は<不可能性の説話>。グローバル化による中間層分解が帰結する先進国内の不全感と、蓄積されつつ隠蔽されてきた政治的怨念のグローバル化に伴う顕在化(テロ!)を背景に、冷戦体制終焉後は<不可能性の説話>が浮上しつつある事実を、話しました。 前編での予告通り今月は、社会に関する<不可能性>の宣べ伝えとして森達也監督『FAKE』とマシュー・ハイネマン監督『カルテル・ランド』を取り上げ、愛に関する<不可能性>の宣べ伝えとしてギャスパー・ノエ監督『LOVE』とアンドリュー・ヘイ監
2016/08/13 リンク