
TOP > 特集記事 > 【新潟ロシア村】新潟の平成遺構 わずか11年で幕を下したテーマパーク 美しかった建物と閉園後の姿 【NSTアーカイブ】 新潟駅から車で約40分ほどの笹神村(現・阿賀野市)に1993年(平成5年)にオープンしたテーマパークで、わずか11年で閉園。今や”廃墟”として全国的に有名な「新潟ロシア村」。NSTのアーカイブから「新潟ロシア村」を振り返る。 ■ 冷戦終結とソ連崩壊 新潟に訪れた「環日本海交流」 1991年、ソビエト連邦が崩壊し、冷戦が終結。日本海側の港町は新たな国際交流の玄関口として注目され始めた。中でも新潟はロシア極東との物流・経済・文化交流の拠点として脚光を浴び「環日本海経済圏構想」が叫ばれるようになる。 「環日本海」を冠するシンポジウム等が多く開催され、使節団の交流も盛んに行われた。 この時期、新潟空港にウラジオストク便が就航した。就航レセプションはロシア
表題写真と下写真は以前、長野県木曽町に行って撮影してきた、戦時中に迷彩をほどこしたという土蔵です。写真の解像度が低いのは申し訳ないですが、いずれ撮り直しに行きたいと思って居ます。 赤と黒の迷彩が入った土蔵 太平洋戦争も末期になり、日本への空襲の危機が叫ばれるようになると、土蔵の白壁が夜目に目立つとして、すすなどを塗って迷彩することが盛んに行なわれました。たいていは、白壁の上にすすで黒く塗ったものですが、木曽町の土蔵はなんと、黒と赤の迷彩です。まず見たことがありませんし、迷彩効果からいっても(もちろん、白壁を塗るのもたいしたことではありませんが)、不思議です。 扉にもしっかり塗装 とびらにも、丁寧に色が塗ってあります。基本的にこの状態で土蔵を物置に使っていますので、影になる部分が多く雨にも当たりにくいため、戦後半世紀以上を経ても、これだけの色が残ってくれたといえます。 土蔵正面の迷彩はほとん
上方漫才トリオ「横山ホットブラザーズ」のリーダー・横山アキラ(本名・彰)さんが9日午前8時、腎不全のため大阪市の療養施設で死去した。88歳。大阪市出身。葬儀・告別式は近親者らで行った。 10代から舞台に立ち、戦後、父親の故横山東六さんや弟のマコトらと横山ホットブラザーズとして活動。1975年に東六さんが引退した後はマコト、セツオとの兄弟トリオとなり、テレビや舞台で活躍した。 アキラさんは舞台ではギターとボケ役を担当。最も有名なのは、のこぎりを楽器のように鳴らす芸だ。のこぎりを7回たたいて「お~ま~え~は~ア~ホ~か~」と聞こえる奇妙な音を出す芸は〝大阪名物〟と言われ、老若男女問わずみんなに愛された。 ただこの芸は、思わぬことから生まれたという。お笑い関係者は「昔は、お酒が入っている客の前でやる営業も結構多かった。そういう客の中には『しゃべってないで歌え!』など、変なヤジを飛ばす者がいたらし
30代半ばで放送記者の肩書を捨て、8年間、深夜や早朝のアルバイトをしながら一人で全国の被爆者2000人以上を訪ね歩き、1002人の声を記録した人がいた。元長崎放送(NBC)記者の伊藤明彦さん(2009年に72歳で死去)。今年8月放映予定のNHKドラマ「八月の声を運ぶ男」のモデルだ。 伊藤さんを、そこまで駆り立てたものは何だったのか。また、ドラマの原案となった伊藤さんの著書「未来からの遺言 ある被爆者体験の伝記」に登場する被爆者、吉野啓二さん(仮名)との出会いの中で、伊藤さんがたどり着いた「被爆太郎」伝説とは何か――。 姉は名前を呼び続けた 伊藤さんが、吉野さんと出会ったのは、会社を辞め、一人で被爆者の声を集め始めて4カ月がたった1971年秋のことだった。 吉野さんは、吃音(きつおん)癖を持つ小柄な男性だった。副腎皮質機能障害や再生不良性貧血によるアレルギーなど20以上の症状を持ち、入退院を
廃線50年 林鉄を後世に 上松町公民館 懐かしの写真80点展示 山から切り出された木材を搬出した森林鉄道(林鉄)の廃線から今年で50年となるのを記念した写真展が、上松町公民館で開かれている。林鉄が現役だった時代の様子を生き生きと伝える写真約80点が展示されている。 大量の木材を積んで山あいを走り鉄橋を渡る林鉄車両、停車場で運転手とタブレット(通票)の受け渡しを行う女性駅長、大量の木材が集まる集材基地や整備の様子などを捉えた写真がある。伐採した丸太をやぐらのように組み、橋台や橋桁に仕立てて軌道を延長した「作業軌道」は圧巻だ。 展示資料は、町出身の森下定一さん、中村秀己さん=いずれも故人=が撮影、現像などで共同制作した。 企画した町観光協会の担当者は「林鉄を懐かしむとともに歴史を後世に伝える展示になれば」とする。30日まで。午前9時~午後5時。 木曽地方の各地で運行された林鉄の歴史を伝える写真
大阪府熊取町にある鉄製の橋が、150年前の鉄道橋が架け替えられた、現存する日本最古の鉄橋であることがわかりました。 熊取町の川にかかる「大宮橋」は、1931年(昭和6年)に完成した長さ約21メートル、幅6メートルの鉄製の橋で、「渡り初め」の式典には、ご覧の通り多くの人が詰めかけました。 1874年(明治7年)に、大阪・神戸間で開通した鉄道の橋が架け替えられた可能性があると言われていましたが、詳細は不明でした。一方、現存する日本最古の鉄製の橋は、3年前に阪神高速・淀川左岸線の工事で撤去された、大阪市北区の「浜中津橋」と考えられていました。 今回、土木学会などが調査した結果、同じ鉄橋が元になっていることが分かり、「大宮橋」を“日本最古”と判断したということです。 調査を行った坂下泰幸さんは、「土木遺産としての活用に向け、関係者の努力に期待したい」と話しています。
前島賢(大樹連司):文学フリマ新刊委託中 @MAEZIMAS つまりこういうことです。 僕らの頃はインターネットもなく、サブスクもなかったので、『エヴァ』からオタクになった若い世代は、『ガンダム』『イデオン』や、『王立』『トップ』といった文脈の中で作品を見る、ということが今よりずっと困難だった。 2025-06-14 15:33:35 前島賢(大樹連司):文学フリマ新刊委託中 @MAEZIMAS するめと自然に、そういう文脈抜き、純粋にキャラや物語を楽しむことになりますが、それが「動物的」であり「データベース的」と(時に批判的に)呼ばれたわけです。それを「文脈に依存して物語を楽しむのがデータベース的」とか言われると、逆だよ逆、と言わざるを得ない。 2025-06-14 15:36:52
柚子 @_yuzu_40 滝上町郷土館(職員常駐型) SL館に郷土資料館に生活歴史館の3棟からなる豪華施設がたった150円!入館者は日平均3人らしい... 展示の充実度は紋別市の博物館に勝るとも劣らない立派さでした。再訪したい。。。 #ゆず渚滑線めぐり pic.x.com/kx3tYkeazA 2025-06-08 19:42:09
2014.11.20 【温泉の旅】川治温泉に行ってきました(後編) テーマ:国内旅行どこに行く?(59601) カテゴリ:温泉の旅 皆様、こんばんは。いかがお過ごしでしょうか。川治温泉の旅の話の続きを、今夜はしたいと思います。 私が今回、川治温泉で見ておきたかった石碑がひとつあります。そのお話をするために、ちょっと時計の針を1980年(昭和55年)の今日・11月20日に戻してみたいと思います。 その当時、川治温泉に「川治プリンスホテル雅苑」というホテルがありました。西武系列ではなく個人経営のホテルで、川治温泉では中規模クラスのホテルだったといいます。この日、大浴場に隣接されていた露天風呂の解体工事が日中に行われ、トーチランプ(ガスバーナー)を使った作業がされていました。しかしその火花が、木造だった浴場棟の隙間に入ったとみられています。 この日は紅葉狩りのシーズンという事もあって、東京都杉並
岡山県内には、明治の中頃から昭和の初期頃まで、とても変わった建築が数多く姿を現しました。現在も県内にこれらの建物が、たくさん残っています。「擬洋風建築」って、聞いたことがありますか。このように呼ばれる建物は、県内の身近なところでもその気になれば探し当てることが出来ます。 「擬」という言葉には、「なぞらえること、型取り、似せること」といった意味があり、西洋建築を似せて造った建物を「擬洋風建築」と称しました。現代の建築が発展する中で、擬洋風建築はこれまであまり評価されてきませんでした。しかし、この建築スタイルは、日本の大工さん達が明治以降の文明開化の中で、西洋の建築に憧れ、日本の大工技術で工夫を懲らせて西洋に負けじと考え出したものです。これまでの木造建築の技術で工夫を重ね、世界に類のない素晴らしい建築様式を編み出したと考えています。現在では、どこか懐かしい風景を創り出す建物でもあります。 県内
一週空いたが、今週の消え去ったI/F史は、VESAによって1992年8月に策定されたローカルバス規格となるVL-Busの続きを語ろう。VL-Busの最初のところで少し触れたが、インテルは1991年にIAL(Intel Architecture Lab)を立ち上げ、ここで次世代のPCに必要となるさまざまな要素の技術開発をしており、その中にはI/Oバスに関するものも含まれていた。 当時IALはRon Whittier氏がVP&GMとして統括を行ない、その下にCraig Kinnie氏とSteven McGeady氏が、それぞれH/WおよびS/Wの開発をまとめる形で指揮を執っていた。そんなわけで、PCIの開発の大きな部分は、Kinnie氏の指揮の下で進められた。 デスクトップPCを機能拡張するための接続規格 PCI PCIの開発の直接的な動機となったのは、IBMによるMCAの失敗というか爆死であ
1945年、原爆投下から2カ月後の長崎で、長身の男性がひとり焼け残った壁に何かを書いていた。左手で書く大きな"伝言"―。解読で浮かび上がったのは、「大黒町」「田辺文具店」の文字だった。わずか2秒の映像に刻まれた、原爆で消えた町の記憶。80年の時を超え、謎だった男性の正体が明らかになる。 天井裏に眠っていたフィルム 原爆投下の翌月、日本映画社(日映)が広島と長崎で「記録映画」の撮影を始めた。 映画は翌年に完成したが、映像はすべてアメリカに没収された。 ところが――。 撮影スタッフたちは、未編集の複製フィルムを密かに現像所の天井裏に隠していた。存在がオープンになったのは1952年4月の占領解除後。その中に、場所も人も分からない、2秒間の謎のカットがあった。
昨日一日は、精も根も尽き果てていたのですが 今日は何とか動けそう。そこで、一昨日から存在が気になっていた 八高線衝突事故の資料を買いに、東京都昭島市まで車を走らせました。 八高線多摩川橋梁衝突事故とこの冊子の関係 と、言ってもよほど鉄道事故に詳しい人じゃないと、この事故は知らないと思うので 一応ご説明しますと、 1945(昭和20)年8月24日に、今のJR八高線で起こった機関車同士の正面衝突事故です。 単線だった八高線で隣接する、拝島駅と小宮駅の間で通信手段が使えなくなり、 やむなく駅員を派遣して鉄道を運行しようとしたのですが、 連絡の行き違いで上下の列車が両方発車してしまい、多摩川にかかる橋の上で正面衝突しました。 犠牲者は105人とされていますが、折あしく「豆台風」の上陸で豪雨が続いていたため 多摩川に放り出された乗客は、濁流に呑まれてしまい今でも正確な数が分からず 終戦の9日後のため
今から80年前、太平洋戦争末期の日本列島は、連日のようにアメリカ軍による空襲にさらされていました。 皇居も例外ではなく、昭和20年3月の東京大空襲で一部の施設が被害を受け、5月の「山の手空襲」では、日本を代表する重要な建物であり天皇の住まいでもあった宮殿が全焼しました。 この出来事は、戦後の皇室のあり方にどのような影響を及ぼしたのか。古い記録や証言をたどりながら探ります。 (社会部記者 橋本佳名美・島崎眞碩) “大日本帝国の象徴” 明治宮殿 明治宮殿「御車寄」 皇居・宮殿がある旧江戸城西の丸には、かつて木造の宮殿が建っていました。 明治21年に完成し、「明治宮殿」と呼ばれているこの建物群は、天皇が執務し公的な行事が行われる「表宮殿」と、天皇皇后の私的な生活空間の「奥宮殿」に分かれていました。 一部を除き木造平屋建てで、面積は現在の宮殿の1.7倍ほど。建設には、当時の国家予算のおよそ5%にあ
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