1. 『ブレードランナー』という問題 リドリー・スコット監督の映画『ブレードランナー』は、公開から20年以上たっているにもかかわらず、今でも批評の対象に挙げられるカルト的な作品である。この作品は、今日のロボットと都市、そして人間の関係を考えるうえでもやはり示唆に富んでいる映画であるので、ここでも議論の出発点として取りあげてみよう。 『ブレードランナー』の舞台は、2019年のロサンゼルス。酸性雨が降り続け、退廃的な繁栄と廃墟が共存する都市は、多国籍企業によって支配されている。多くのSF映画が、これまで宇宙をテーマにしていたのに対して、この『ブレードランナー』は徹底的に都市をその舞台としている。このために、この映画は、その後の都市計画、デザイン、映像表現の想像力の源泉として機能してきた。 この映画の特異性は、3つの雑種性(ハイフリディティ)から構成されている。1つは時間の雑種性である。この時間
序論 本論文は1957年から72年にかけて、ヨーロッパを中心に精力的に活動した前衛グループ、「シチュアシオニスト・インターナショナル(以下SI)についての研究である。SIはギー・ドゥボール、アスガー・ヨルンらを中心としたヨーロッパ広域に渡るアヴァンギャルド・グループで、シュルレアリストの末裔として、1950年代か70年代初頭にかけて、美術や建築、政治などで革新的な活動を行い、それらは戦後の前衛運動の中核に位置しているばかりか、その後の建築、都市計画に少なからぬ影響を与え、最終的にはポストモダンと呼ばれる都市像を生み出す一因となった。 本論は大きく分けて3つの章から構成され、付録資料として”The Situationist City”( Simon Sadler, The MIT Press,1998 )の日本語訳を併記した。第1章では彼らSIの活勣の系譜とその意義について、建築、都市計画と
ネットメディアは世界を変えるか 「逆パノプティコン社会の到来」2011年5月23日パノプティコン(一望監視施設)のイメージ(同書より)「逆パノプティコン社会の到来」を書いたジョン・キム慶応義塾大学大学院准教授。「情報透明化の動きは日本社会でも加速していくだろう」と話す=東京・慶大三田キャンパス著者:ジョン・キム 出版社:ディスカヴァー・トゥエンティワン 価格:¥ 1,050 米外交公電の大量公開で注目を浴びた「ウィキリークス」。アラブ諸国に広がったジャスミン革命で民衆を結んだ「ツイッター」「フェイスブック」など、ユーザー自ら発信者となるソーシャルメディア。インターネットを舞台とした市民による情報共有の動きが今、世界を揺るがしている。慶大大学院政策・メディア研究科のジョン・キム准教授の「逆パノプティコン社会の到来」(ディスカヴァー・トゥエンティワン)は、現在進行中の国家と民衆の力関係の変化
都市の歩道空間をめぐって,異なる利害を有する 2 つのアクターが抗争している。一方は,市行政権力であり,都市計画の実践という観点から歩道を歩行者のために維持管理する。他方に,追い立ての恐れの中で歩道を不法占拠し生活の場にするホームレスの貧困者たちがいる。前者は公空間である歩道を占拠させまいと力を行使する立場にあるし,後者はそれに抗して歩道上で生活基盤の確保に勤しむという反対の立場に生きる。本稿では,様々な歩道空間での活動なかでもきわめて明確に目を惹く実践である「歩道寺院」活動を焦点化する。この動きは50年を超える歴史があることが分かっているが,とりわけ1990年代以降急増しており,チェンナイ市の全体に拡がった一般的現象になっている。これらの歩道寺院は大方が社会的に下層の人々によって開始され建設が進められている。歩道寺院は明らかに,神の名においてその空間を聖化し,その力によって行政権力に抵抗
トップページにもどる オンライン書籍の目次にもどる 5章 戦略的本質主義から生活の場の戦術へ 1.戦略的本質主義のアポリアと「戦略/戦術」 ホブズボウムやサイードに対してもその本質主義的側面を批判するといった反本質主義の徹底化の一方で、西洋の学者たちが「伝統の発明」論のような脱構築を、世界システムの中で明らかなヘゲモニーをもつ自分たちの文化や伝統にではなく、植民地化された地域における再構築された伝統に対して適用するとき、構築主義に対して、現地の民族主義者たちから新植民地主義であるという批判が寄せられるということを、キージングとトラスクの論争で見てきた。トラスクの批判は、自己肯定的なアイデンティティの確立をめざす土着主義的な民族主義運動を「伝統の発明」と指摘する構築主義の議論は、抑圧されてきたネイティヴ自身によるアイデンティティの確立の基盤を破壊しようとしているという批判であった。けれども
セルトーの説く「戦術」についての引用 戦術」とは自分に固有の空間をもっていない状態で、しかし計算された行動によって何とかそこで生きたり、障害を切り抜けたりすることを指している。「戦術」はもっぱら他者の場所で行使される。戦術は日常生活におけるありあわせのモノを何とか使い回して、他者の(権)力の場で生き残る方法なのである。それは他者のルールによってなされるゲームの空間において、そのルールの裏をかこうとする試みである。「それは弱者の技なのだ」。自分自身のもの(自分に固有のもの)をもたないで、とりあえず既成の力と表象が織りなす網の目をかいくぐりながら抵抗することで、他者の(権)力による監視や儀礼=慣行の強制から一時的に逸脱することが戦術と呼ばれる。 --------------------------------------- 盛岡の旅館のおかみさんの話 マツタケの価格が高騰すると結局は地
人間は、いろいろな感覚において、常に差を取り続けて生きています。動きが見えるのも、音楽が聴けるのも、物語を感じるのも、すべて差をとった結果なのです。差を取って初めて、それが可能になるのです。 この本では、静止画の組をたくさん開発・制作し、それを1組1組、読者の方に視覚情報として呈示します。そして、読者の方が、それらの図像の差分を取ったときに、ある新しい表象(=あじわったことのない気持ち)が生まれることをまず一番の大きな目的とし、その後でそれがどういう意味を持つのかということを鑑賞してもらうことを次の目的としています。 2〜5枚の絵を続けて見たときに、 ふいに立ち上がる我々内部の得体の知れない表象。 1頁1頁、じっくりご覧になり、また読み進めていってほしいと思います。 いっしょに研究し制作したのは、慶應大学の佐藤研の研究員だった石川将也と菅俊一です。3人で、この4年間、毎週毎週かかさず集まり
あなたの生命的な躍動を萌芽させたい。あなたに宿った思索が「表現」に花開くために、縦横無尽に思索の種をまいていきます。 aとbの差を取ることで、「ある表象」が生まれる。 この2枚の絵の差分を取ることで、「もりあがる」という感覚が、我々の内に生まれる。P3-5 佐藤雅彦・菅俊一・石川将也「差分」(美術出版社 2008) 本書は李英俊さんに勧めてもらいました。ありがとうございます。 「差」を取ることで何かが生まれる。 差分とは、隣り合ったものの差を取った時の「脳の答え」である。 このように始まりが告げられる本書は、絵本といっていいのか、差本とでも称せばいいのだろうか。中々、紹介に困る本である。なぜなら、この本が「示されていないことを示すこと」によって成り立っているという奇妙な構図をもっているからです。 人は様々な感覚において差を取りながら生きている。動きが見えるのも、音楽が聴けるのも、物語を感じ
Essays now and then へ戻る 今福龍太が読む 3 ベルナベ、シャモワゾー、コンフィアン『クレオール礼賛』(平凡社) 「ヨーロッパ人でもなく、アフリカ人でもなく、アジア人でもなく、われわれはクレオール人であると宣言する。それは我々にとって一つの心的態度の問題であろう」。こう書きはじめられる本書が、文化マニフェストとしての熱を放射する特別の書物であることには疑問の余地がない。クレオール人という自覚は、本書で著者たちがくりかえし述べるように、言語と文化の多様性を建設的に探求することで世界についての意識を保持するという新しい認識のあり方がうみだす、人類の未来的なアイデンティティの課題にかかわっている。 本書の三人の著者が生を受けたマルティニック島は、カリブ海の小アンティル諸島に位置している。島は一四九三年にコロンブスによって「発見」され、一七世紀にフランスの植民地となった。以後は
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