烏坎村の自治の動きを「公共性」の観点から理解するのに有用だと思われるのが、、著名な中国思想史研究者である故・溝口雄三氏が『中国の公と私』などの著作の中で強調していた、「つながりの公」という概念である。以下の表は、同書の中に示された(同著57−58ページ)、清末革命家の思想家の「公」「私」概念を対比させたものだが、これを上記のような烏坎村の事例を頭に入れながら改めて眺めると、実に味わい深いのではないだろうか。 ※訂正: 上の表の「公」の「君・主」の項目の一行目、「民主・・私」とあるのは「民主・・公」の誤りです。 この一連の対比からは、たとえ政府や国家、君主であっても、それが「一部の少数者」の利害を代表している場合は、「私」的な存在として批判・打倒の対象になるのに対し、その対立概念であるところの「公」は、あくまでも、「多数者」の利益を代表するものとしてイメージされていることがわかる。このような
毎年2月に開かれる「菜の花忌」。作家の司馬遼太郎さんをしのび、当日は「司馬遼太郎賞」の贈賞式などが行われます。前回受賞した静岡大教授の楊(よう)海(かい)英(えい)さん(47)は、中国・内モンゴル自治区出身の文化人類学者。中国では現在もタブーとされる文化大革命(1966~76年)で、その人生が大きく変わり…。(磨井慎吾)文革の辛い記憶 3つの名前を持っている。モンゴル名のオーノス・チョクト、中国名の楊海英、帰化の際に付けた日本名の大野旭(あきら)だ。言論活動では「楊」を使うが、好きなわけではないと話す。「帰化の前から楊の名前で書いてきたから。中国の少数民族は中国名を持たないと不便が多く、その意味では植民地的な名前。でも使っていると常に内モンゴルという自らの出身を意識する」 帰化前の国籍は中国だが、自己認識はモンゴル人。漢民族が支配する中国を祖国とは思わないが、外国では中国人として扱われる。
砲弾からたちまち包丁が 包丁の刀身とするため、砲弾を焼き切る呉さん 「これはみんな、毛主席からの贈り物です」 開口一番、包丁づくりのベテラン職人、呉増棟さん(54)が仕事場に山と積まれた砲弾を指して言った。 ここは台湾支配地域で中国に最も近い金門島。どうも見学客が訪れるたび、同じ言葉で笑いをとっている疑いがあるが、たしかにウイットの利いた言い回しだ。ただし、そのウイットを理解するには、ある程度の予備知識がいる。 1958年、毛沢東の中国は金門島に集中的な砲撃を浴びせ、奪取を図った。着弾した砲弾は、44日間で実に47万9554発。当時子どもだった住民は「雨のように降り注いだ。サイレンが鳴るたびに防空壕に駆け込んだ」と振り返る。多数の死傷者を出しつつ、台湾側が金門を死守したが、砲撃合戦はその後ルーティンワークのようになり、70年代末まで続いた。 呉さんは島に無数に残る砲弾から、包丁をつくる。包
■ブックレビュー:梶谷懐『「壁と卵」の現代中国論 リスク社会化する超大国とどう向き合うか』人文書院、2011年■ *梶谷懐著『「壁と卵」の現代中国論: リスク社会化する超大国とどう向き合うか』。書影クリックでamazonページへ。 ■テーマ選びの秀逸さに驚嘆 「すごい本が出た」というのが率直な感想だ。現代中国を知るためにも、日本人として中国とどう向き合うかを知るためにも必読の一冊と言えるのではないか。 何がそんなにすごいのか。 本書を貫くテーマ(後述)も確かに面白いのだが、中国屋としての自分の目から見れば、最大の魅力はテーマ選びのセンスが傑出していることにある。全11章から構成されているが、そのすべてが急所を押さえたものばかり。しかも一つ一つの解説がきわめて深いのである。 これ一冊で現代中国の重要テーマがすべて分かる、と言うとさすがに誇大広告となるが、中国語ニュース翻訳の仕事をしている自分
アヘン戦争後の内憂外患から辛亥革命へ。近代国家へと生まれ変わる中国に生きた啓蒙思想家であり、祖国のために「富強」を追求した厳復の姿を、同時代に富国強兵への道を歩んだ日本を… 厳復(げんふく)―富国強兵に挑んだ清末思想家 [著]永田圭介 厳復――その偉大さを日本人にわかりやすく伝えるためか、本書の帯に「中国の福沢諭吉」の文字が躍る。トマス・ハクスリーの『進化と倫理』をはじめ、ハーバート・スペンサーの『社会学研究』やアダム・スミスの『諸国民の富』、モンテスキューの『法の精神』などを翻訳し、西洋近代思想を中国に紹介して、国の富強への道を模索し続けた中国近代啓蒙(けいもう)思想家である。 しかし、その名の浸透は、日本の一万円札に印刷された福沢諭吉に遠く及ばず、外国人はおろか、現代中国においても教養階層にとどまっている。この現象こそが、中国はいまだに政治の近代化を実現できていない所以(ゆえん)を語っ
梶谷懐 KAJITANI Kai @kaikaji 吉澤誠一郎氏の『清朝と近代化』岩波新書には、通俗的な「停滞」イメージに反し19世紀後半の清国経済は国内流通の整備と一次産品の輸出増大、海外からの華僑送金で活性化し成長していたと書いている。ただこれはむしろ18世紀前半の「大分岐」により生産力に差がつき一次産品に比較優位を持つように 2011-11-20 22:52:23 梶谷懐 KAJITANI Kai @kaikaji (続き)なったことと、世界的な金本位制への流れで銀貨が下落を初め、銀を本位通貨とする清朝に長期的なインフレ圧力が働いたことの効果でかなり説明が可能だと思うのだが。数量経済史などではこの点は強調されていないのだろうか。 2011-11-20 22:54:01 梶谷懐 KAJITANI Kai @kaikaji 18世紀前半→19世紀前半の誤りです RT 吉澤誠一郎氏の『清朝
官制労働組合とはまったく異なる、民間の労働者支援組織「同郷会」。地縁のつながりを軸に助け合う機能を持っている。政府に公認されないがゆえに表に出ることが少ない彼らだが、鳳凰週刊がそうした「民間労働組合」に光を当てる記事を掲載している。 Red Hammer / MarcusYeagley ■広東省の大暴動は同郷会が起こした 以前、記事「現地人と出稼ぎ農民の内戦=「暴力装置」としての同郷会」で取り上げたが、今、広東省など東南沿海部で働く出稼ぎ農民たちは「同郷会」と呼ばれる組織の力を借りて、賃金未払い、待遇改善、不当解雇などの問題に立ち向かっているという。 政府に承認されていない「同郷会」は限りなくマフィアに近い地下組織だ。その機能は暴力を背景としたもので、問題が起きれば刀を片手に殴り込むことを旨としている。今年起きた広東省広州市の大暴動の影にも彼らの存在があったという。仲間が痛めつけられたこと
日露戦争後、日本が中国東北部で運営した国策会社「南満州鉄道株式会社」(満鉄)によって撮影された遼寧省大連市の写真約9000枚が、同市の旅順博物館に保管されていることがわかった。 北九州市立自然史・歴史博物館の日比野利信学芸員(42)が現地で確認した。日比野氏によると、満鉄撮影の大量の写真が中国に現存することを日本側が確認したのは初めて。旅順博物館は満鉄撮影の写真は2万枚以上あるとしており、全体像把握の調査を検討する。 写真は昨年12月に日比野氏が旅順博物館を訪問した際、示された。街の風景や満鉄工場、ボウリングに興じる市民など様々で、「南満洲鉄道株式會社」と印字されたカードに貼られていた。満鉄の広報誌「満洲グラフ」の掲載写真と同じものもあり、撮影者欄にある姓も満鉄職員と一致した。
軍事的な才覚では、跡継ぎとして父ヌルハチの期待に恥じない 堂々たる働きを見せてきたタイシャンである。 戦場での「いけいけどんどん」の猪突猛進では、鬼神のごときカリスマ性を発揮し、 兵卒の一人一人に至るまで戦いに駆り立てる魔力を持っていた。 ところが一たび複雑な権力闘争の場で、目に見えない謀略を相手にする場合は、 どうやらあまり健闘したとはいえないようである。 チュインが誅されてから、タイシャンはヌルハチの息子らの中では最も年長であり、 大福晋を生母に持つ、文句のつけようがない後継者であった。 ……中原王朝の思考からいけば。 網の目のように張り巡らされた官僚機構により、 皇帝があほたれえでもまったく国の機能に影響しないシステムの中では。 しかしまだ文字も持たない、勃興したばかりの女真族の中でその道理は通じない。 ヌルハチの他の息子らが、 タイシャンを引き摺り下ろし、自分が取って代わるチャンス
建設当時、“東洋最高のダム”と呼ばれた中国・吉林省吉林市の豊満ダム。これを建設したのは戦前の南満州鉄道。つまり、日本が敷いたインフラの一環だ。2011年5月末、このダムで3回目の安全性定期検査が行われ、これを全面的に再建する方向でまとまりつつある。 建設当時、“東洋最高のダム”と呼ばれた中国・吉林省吉林市の豊満ダム。一説にはダムの寿命は50年と言われる中、すでに約70年も水力発電所として機能し続けている。これを建設したのは戦前の南満州鉄道(満鉄)。つまり、このダムは日本が敷いたインフラの一環だ。2011年5月末、このダムで3回目の安全性定期検査が行われ、これを全面的に再建する方向でまとまりつつあるという。しかし、これには疑問を呈する声も多く挙がっている。6月13日付で中国経済誌・新世紀が伝えた。 【その他の写真】 1934年着工、1942年に発電所として稼働開始した豊満ダム。松花江をせき止
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