2012年12月31日に起きた、台湾とモンゴルの関係の転機について。歴史四方山話満載でなかなか面白いネタである。主にRFI中国語を参照した。 Ulan Bator (Mongolia) / Mario Carvajal ■清朝・理藩院の名残、蒙蔵委員会が消滅 現在、中華民国が統治しているのは台湾に限定されるが、建て前としては清朝の後継国家として中国本土の領有権も主張している。その中国本土の中でもチベットや新疆、甘粛省など旧藩部を統括する部局が蒙蔵委員会だ。清朝の理藩院からの組織割りが21世紀の今まで残っていたという次第。 台湾行政院の組織改組に伴い、2012年12月31日を持って消滅。業務及び人員はモンゴル処、チベット処として大陸委員会に所属することになった。 ちなみにモンゴルもチベットも統治していなかったのに70人のスタッフがいたとのこと。業務としては台湾在住のモンゴル人、チベット人絡み
最近チベット近現代史の知識強化を行っている。そのため、土曜日は早稲田大学の「中央ユーラシア歴史文化研究所」主催のシンポジウム「近代モンゴルにおける『モンゴル史』の構築」に行き、日曜日は北大スラブ研究所主催のワークショップ「ユーラシア地域帝国としての清朝研究」と立て続けに行ってきた。 しかし、「まじめに座って勉強する」をやりすぎたせいか、日曜日の晩に20時きっかりに激しい悪寒に襲われど派手に体調が崩れた。状況から察して知恵熱かと思われる(おい)。 教訓: わたしはまじめに勉強すると死ぬ。 さて、こんな肉体的な苦労をともなったシンポジウムなので、一般人にも分かるように適当な報告して元を取ろうと思う(正確かつまじめな文作をする体力はまだない 笑)。 ●●●「近代モンゴルにおける『モンゴル史』の構築」●●● まず、早稲田のシンポジウムの方は発表者は以下の三人で、最初のゲストをのぞく残り二人は自分の
タイトル別名 The Influence of the Communications Revolution on the Yehetuan Incident: The Invention of the Telegraphy and Political Transformation in Late Qing China ジョウホウ カクメイ ト ギワダン ジケン デンキ ツウシン ノ シュツゲン ト セイマツ チュウゴク セイジ ノ ヘンヨウ The pupose of this paper is look at the events surrounding the Yihetuan 義和団 Incident in the light of the communications revolution touched off by the invention of the telegraph
清国の特派大使 「東京朝日新聞」1912/08/13 清国新政府は未だ承認せられず、故に今回の御大葬式に参列すべき特派大使も一個の袁世凱氏の施設として参列する由。其人名左の如し。 大使 袁克定 副使 胡惟徳 支那特派大使謝絶 支那政府より御大葬参列特派大使を派遣すべき旨、内交渉ありたるも、我外務省にては未だ支那政府を承認し居らず。之を諸外国大使と加ふる能はず。一外国紳士として待遇するの外なきを以て、特派の厚意は謝するも、其待遇に就ては、予め承知せられたしと通告し置きたれば、多分支那特派大使派遣は之れなかるべしと外務当局者は語れり。 【メモ】 袁世凱政権からの弔問使派遣に関する記事二題。 袁克定は袁世凱の長男であり、吉野作造が家庭教師となっている。 胡惟徳は同政権の外相に当たる人物である。 南満の豊作 「東京朝日新聞」1912/08/13 本年南満一帯の農作は近年稀なる好景況にして、到る処、
張勲叛せん 「東京朝日新聞」1912/05/24 宿遷より至れる支那人側の報道に曰く、張勲は宗社党に合し、山東省滕県及嶧県於て軍兵二十営を集め、泰安に於て兵を挙ぐる準備中なり。 【メモ】 袁世凱の腹心である張勲が宣統帝復位を目指す宗社党と共に反旗を翻すという報道。 恐らくは事実誤認であろうが、この数年後の所謂「張勲復辟」を考えると興味深い。 幼帝と陳宝琛 北京 蒼鷹公 「東京朝日新聞」1912/05/24 でんでん太鼓に笙の笛、自動汽車よ、電車よと、手遊玩具に余念なかるべき、宝齢僅か七歳と云ふに、晨(あした)には九時より南書房に出臨して、午後四時に至る迄、読書習字に精励せらるる、宣統幼帝の可憐さは、さらでも涙脆き隆裕皇太后の涙の種なりとか。幼帝の師傅と頼まるる福建の名士、侍読学士陳宝琛にして、歯耳順を逾(こ)ゆること七歳、曽(かつ)ては十七歳にして進士に及第し、三百同庚最少年(陳氏印中の語
编者按:在中国的外交语汇中,有一个特殊的称谓:“中国人民的老朋友”。 南方周末记者检索了1949年至2010年的《人民日报》并加以统计,寻找如下问题的答案:有哪些人被中国官方认定为中国人民的老朋友?他们何以跻身老友行列?中国政府和人民又是如何维持友谊的? 从“中国人民老朋友”的变迁亦可一窥新中国外交的轨迹。 过去六十余年,共有601人被称为“中国人民的老朋友”,他们来自五大洲123个国家。 早年,反帝、反殖、反侵略是辨识“老朋友”的依据。而“随着中国外交不断走向务实,‘老朋友’称呼的意义也逐渐淡化”。 中国人民的老朋友们。 (梁伟驰/图) “中国人民的老朋友”历年出现频次 “中国人民的老朋友”人数最多的十国 “老朋友”被提及次数排名 有这样一群外国人,大多数中国民众一辈子未曾与他们谋面,但这些人的名字一旦出现,几乎所有中国人的脑中都会条件反射地出现一个称谓:“中国人民的老朋友”。 这些“老
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