與那覇潤先生のご著書『中国化する日本』には隠されたモチーフ、裏のテーマ、真の意図などがさまざまに埋めこまれていて分かりにくいので、先生のツイートを検索して一望できるようにしてみました。検索から漏れてたり、関係のないものが混入していることがあります。「拙著」「意図」「狙い」「試み」などでは検索してないので、まだ他にも出てくるかもしれません。 これだけ多種多様な隠れモチーフや裏テーマなどをぜんぶ盛りこんで、まったく破綻させることなく一冊のご本にまとめられるご手腕には敬服です。 https://twitter.com/jyonaha/status/70144604917338112https://twitter.com/jyonaha/status/105231151366541312https://twitter.com/jyonaha/status/127307515158466560htt
中国江蘇(Jiangsu)省南京(Nanjing)で、プロモーションイベントのために600年前に建造された城壁の上に置かれた「フェラーリ458イタリア(Ferrari 458 Italia)」の限定モデル(2012年5月7日撮影)。(c)AFP 【5月10日 AFP】中国・南京(Nanjing)にある明王朝(Ming Dynasty、1368~1644年)時代に建造された城壁の上で、イタリアの高級自動車メーカー、フェラーリ(Ferrari)のスポーツカーがデモンストレーション走行を行い、史跡に損害を与えたとして市民らの怒りの声が高まっている。 中国国営新華社(Xinhua)通信が9日伝えたところによると、デモ走行はフェラーリのプロモーションイベントの一環として中国の販売代理店が行った。被害を受けたとされるのは南京東部の著名な史跡「中華門(Gate of China)」付近の城壁で、街を取り
『守貞謾稿』女扮編。今回は髪形の名称の話が中心である。 「又元禄前後の髪名にとりあげ髪こたん曲四つ折ならず曲等諸書にあれども其形をしらずならず京坂今も放蕩を云江戸に云どうらく者と同じ 又元禄中吹鬢の名あり鬢を浮し出したる物也又繻子鬢と云もあり伽羅油を多く用ひて髪に光沢の名也」 とある。元禄頃の髪形の名称として、とりあげ髪等をあげるが、形状はわからないとする。ただし分かるものもあるようで、吹鬢は鬢を通常より大きく浮き出したもの、繻子鬢は伽羅油を多く用いて繻子(サテン)の様に髪を光沢あるようにしたものであったと言う。 「当時髪名には吾妻、引出し、とんぼわげ、小島田、釣髪、二重曲、茶せん曲、なげ島田、兵庫曲、とり上げ髪、下げ髪、引こき髪、後家髷、丸曲」とある。その他の髪形の名称として、引出し等々をあげる。この内、いくつかについては、後に解説が付されている。「蜻蛉曲(とんぼわげ)は舞妓結之形華なり
Assistance of Finnish nationals in distress abroad. No visa inquiries. Phone calls will be recorded. The reform of the Foreign Service of Finland took a step forward on 1 August, when the reorganisation of the Ministry for Foreign Affairs and the updated rules of procedure took effect. The purpose of the organisational reform is to lay a suitable foundation for the Ministry’s work in the current i
目録學は支那には古くからあるが、日本には今もつて無い。これは目録といつても、單に書物の帳面づけをするといふやうな簡單なことではない。支那の目録學にはもつと深い意味がある。これを知らないと、書物の分類も解題もできない。のみならず、今日實際に當つて、色々のものを見るのに困る場合が多い。日本の目録には、意味のないことが多い。かの佐村氏の「國書解題」などでも、箇々の書の特質を標出し得ずして、何れの書にも同樣の解題をしてあるやうな處があつて、解題の意味をなさぬものがあるが如きである。 ともかく、現存の支那の目録では、漢書の藝文志が最も古いものである。漢書は班固の生前には出來上らないで、その妹の曹大家が完成したものといふが、藝文志は班固自身の手に成つたものであらう。後漢の中葉、西洋紀元一世紀の終り頃に出來たものである。 大體、漢書藝文志は、班固が自分で書いた處は、最初の敍文ぐらゐの僅かばかりで、その全
目録学は、劉向・劉歆から始まる長い伝統を持つ学問ですが、二千年にわたるその歴史の中で、多くの学者の力によってさまざまな新しい顔が明らかにされてきました。 その歴史の中で、余嘉錫は、目録学の何を明らかにしたのでしょうか。目録学に対する余嘉錫の最大の貢献は、目録が「学術の史」であると位置づけた点にあるように、私には思われます。 中国には、長い学の伝統があり、その成果としての書物が伝えられてきました。前漢時代の末期、それらの膨大な書物を前にして、劉向たちはそれらの書物からさかのぼって古代の学の姿を明らかにし、さらにその上で、学の伝承がどのように書物の上に反映されているのか、そこまでを論じて目録を書いた。それは、目録の序文として完成された。これぞ「学術の史」と評価しうる、余嘉錫はそのように考えます。 してみると、目録は単なる帳面ではありません。そして目録学は、単なる帳簿の学ではありません。 知凡目
修理中の今だからこそ見ておくべきだと、地元の方から熱く勧められた姫路城。 そこには確かに今しか見られない姿があった。 ただ私は姫路城に対して、プロレスラーの藤波辰爾が一番の城だといっていたという程度の知識しか持っていないので、その点ご了承ください。
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