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ブックマーク / xuetui.wordpress.com (8)

  • 『仏典はどう漢訳されたのか』

    出版されたばかりの、船山徹『仏典はどう漢訳されたのか―スートラが経典になるとき』(岩波書店、2013年12月)を読みました。 仏教が中国にはじめて伝えられたのは、前漢時代のことであったようですが、後漢時代、二世紀ごろにもなると、いくつもの仏教経典が漢語に翻訳されるようになります。「漢訳仏典」と呼ばれるものです。書は、翻訳文献としての漢訳仏典に焦点を合わせた、はじめての格的な概説書です。 長い歴史を持ち、現代にも生きている漢訳仏典。葬儀や法事で僧侶があげるお経や、『般若心経』の写経などを通じ、日人にとっても馴染み深いものです。また「縁起」「輪廻」「世界」などのことばも、すべて漢訳仏典に由来します。 そんな親しみのあるものについて、総括的な概説書がこれまでなかったことは、奇異にすら感じられるかもしれません。しかし、漢訳仏典の概説を書くためには、並外れた力量が必要で、インド・中国のみならず

    『仏典はどう漢訳されたのか』
    bitheiboo
    bitheiboo 2014/01/09
    興味深いテーマの本。自分も仕事で翻訳をしているので、目次と書評を見ているだけでも読書欲がそそられます。
  • 宰我はなぜ昼寝をしていたのか?

    『論語』公冶長篇に、次の一段があります。 宰予晝寢。子曰:「朽木不可雕也,糞土之牆不可杇也。於予與何誅」。 宰予が昼寝をしていた。子はいわれた、「朽ちた木材に雕刻を施すことはできないし、汚い土でできた土壁は塗ることができない。宰予については、責めてもしかたないほどだ」、と。 宰我(宰予)は、孔子の高弟。『論語』先進篇に「德行: 顏淵、閔子騫、冉伯牛、仲弓。言語:宰我、子貢。政事:冉有、季路。文學:子游、子夏」と、「言語」に長けた弟子としてその名が見える、「孔門十哲」の一人なのですが、『論語』の中では数度にわたり孔子の厳しい叱責を受けています。 昼寝をしていた宰我が、孔子から厳しく叱られたという、ただそれだけの話でしょう。しかし、「言語は宰我、子貢」と称せられた宰我がそんな間の抜けたことで叱られるとは思えない、きっとそれにはわけがあったに違いない、という解釈が存在したらしいのです。ずいぶんと

    宰我はなぜ昼寝をしていたのか?
    bitheiboo
    bitheiboo 2013/09/17
    宰我はいわゆる「叱られ役」だったということですかね?自分も『論語』を読んでいて宰我の叱られっぷりが気になってたもので。
  • 「古今詞義不同辨析例」

    昨日、『古代漢語』(修訂,商務印書館,1999年)の「古今詞義不同辨析例」(同書上冊の99-122ページ)を紹介しました。古代漢語と現代漢語とで、ことばの意味が変化している例を取り上げて説明したものです。 以下、そこに挙げられている39の例を簡単に紹介します。 【愛】 古代では、愛する意、おしむ意、両義があったが、現代では前者のみ。 【謗】 上古では、その人のいないところで批判する意。後に誹謗中傷する意が生じ、現代では後者のみ。 【幣】 上古では、貨幣の意はなく、人に贈る礼物をいった。漢代以降、貨幣の意が生じた。 【斃】 古くは、たおれる意で、死ぬこととは限らなかった。魏晋以後、死ぬ意となった。 【兵】 上古では、主に兵器の意で、兵士・戦士の意はなかった。兵器から派生して、軍隊・軍事・戦争などの意が生じた。 【池】 上古では、主に壕の意。現代では「金城湯池」の成語に残る程度。 【除】 古

    「古今詞義不同辨析例」
    bitheiboo
    bitheiboo 2012/12/17
    古代漢語を読むときに注意を要する字。
  • 「学術の史」としての目録学

    目録学は、劉向・劉歆から始まる長い伝統を持つ学問ですが、二千年にわたるその歴史の中で、多くの学者の力によってさまざまな新しい顔が明らかにされてきました。 その歴史の中で、余嘉錫は、目録学の何を明らかにしたのでしょうか。目録学に対する余嘉錫の最大の貢献は、目録が「学術の史」であると位置づけた点にあるように、私には思われます。 中国には、長い学の伝統があり、その成果としての書物が伝えられてきました。前漢時代の末期、それらの膨大な書物を前にして、劉向たちはそれらの書物からさかのぼって古代の学の姿を明らかにし、さらにその上で、学の伝承がどのように書物の上に反映されているのか、そこまでを論じて目録を書いた。それは、目録の序文として完成された。これぞ「学術の史」と評価しうる、余嘉錫はそのように考えます。 してみると、目録は単なる帳面ではありません。そして目録学は、単なる帳簿の学ではありません。 知凡目

    「学術の史」としての目録学
  • 顧千里の生き方

    最近、なぜか顧千里(1766-1835)のことが妙に気にかかり、台湾出張の間も顧千里の年譜一冊を読みながら過ごしていました。李慶氏『顧千里研究』(上海古籍出版社、1989年)を久しぶりに取り出して読んだのです。 顧千里の事跡が綿密に調べ上げられており、完成度の高い年譜であり、そればかりでなく、この書物を読むことで顧氏の学問と人生が浮かび上がるように書かれています。初めて読んだ時の感動が今回もよみがえりました。 その中でも、最も心にのこったのは、嘉慶5年(1800)の年末、35歳の顧氏が地元の蘇州を離れて杭州へと旅立つに際して、古くからの親友である戈襄が彼に贈った文章です。阮元(1764-1849)が十三経注疏の校勘を行うための一員として、顧千里を杭州に招いたのです。誇り高い仕事ではありますが、とかく純粋にすぎて人と合わない顧氏の性格を、戈襄は深く憂慮しました。 顧子行端潔、性剛果、故出語恒

    顧千里の生き方
    bitheiboo
    bitheiboo 2011/11/29
    自分も人付き合いが苦手な方なので身につまされますね。せめて顧千里の百分の一、千分の一ほどの学識があればいいのですが。
  • 日本の若い漢学徒は何をなすべきか

    若い日人が中国古典を研究し、これから職業的な「漢学家 hanxuejia」として立ってゆくには、どのような道が考えられるのか? 「行き着く先は同じであっても、道は一つではない」、『周易』繋辞伝下に「天下同帰而殊途、一致而百慮」と言うのは、確かに学問についても当てはまる至言ではありますが、それにしても、一つの標準的な学び方が提示されていない現状は、混乱しているように思えます。 来、学習法などという重いものは、軽々に示すべきではありませんが、国際漢学の世界の中で、日の若い学者が重視されていない現状を鑑みると、早い段階から目標を設定し、それを次々に達成してゆく必要がある、と、焦燥を感じております。 私なりにその方途を考えてみましたので、同道の皆様からのご批判をいただければ幸いです。 なお、漢学を吉川幸次郎にならって「ことば」の学問と「こと」の学問に分けるとすると(詳しくは吉川幸次郎『読書

    日本の若い漢学徒は何をなすべきか
  • 漢数字の表記

    この8月はかなり無理をして論文を書いたので、ブログの更新が止まってしまいました。申し訳ございません。久々の更新となりましたが、これからもよろしくお願いいたします。 さて今日は、漢数字の書き方のお話です。たとえば56という数字を漢字で表記する場合、文言文ならば「五十六」と書き、138なら「一百三十八」と書くのが正しいはずです。事実、基的にそのように表記されています。 近代以後、56を「五六」と書き、138を「一三八」と書く習慣が普及しました。民国以後の学者たちも、文言の中にそのような表記法を混入させています。 これについて、私はてっきりwestern impact の現れの一つなのだと思っていました。ところが今日、これが誤解であることに気がつきました。「四部叢刊」に影印を収める、元刊の『大広益会玉篇』の「総目」を見てください。1は「一」、2は「二」、…、10は「十」、11は「十一」、…、

    漢数字の表記
    bitheiboo
    bitheiboo 2010/12/10
    漢数字表記法の変遷と、漢語に「零(ゼロ)」の表記法が持ち込まれたのはいつか?という問題。
  • 学退筆談

    レポートや論文の書き方に苦労している人は多いと思います。指導している学生に対し、これまで読むように勧めてきた… 続きを読む: 『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』 →

    学退筆談
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