2015年6月28日のブックマーク (8件)

  • 日々是古仏愛好

    ホー ム ト ピックス 観仏日々帖 ぶ らり散歩 古仏愛好 古 仏礼賛 仏 像の基 ア ラカルト リ ンク デー タ 更 新項目 メール 最新更新日 2024/1/11 明けましておめでとうございます 今年もよろしくお願いいたします 観仏日々帖に 古仏探訪~2023年・後半の観仏を振り返って 〈その2〉 【〈お薦め読み物〉 仏像発見物語 近代仏像評価の変遷 埃まみれの書棚から 】 展 示 会に 五浦美術館で「新納忠之介、仏像修理への道展」開催(12/9~2/12) 東京ステーションギャラリーで「みちのく~いとしい仏たち展」開催(12/2~2/12) 半蔵門ミュージアムで「初公開~如意輪観音・二童子~展」開催(11/22~4/14) 印刷博物館で「明治のメディア王~小川一眞と写真製版展」開催(11/18~2/12) 特選情報に 奈良国立博物館で長谷寺普門院の不動明王像が特別公開(10

  • 神仏分離令が出た直後の廃仏毀釈の首謀者は神祇官の重職だった

    このブログで、岐阜県安八郡神戸(こうど)町にある日吉(ひよし)神社に三重塔が残されていることを先月書いた。 http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-338.html この日吉神社は弘仁8年(817)に伝教太師 (最澄)が近江坂の日吉神を勧請したことにはじまると伝えられており、かつてこのあたりは比叡山延暦寺の荘園があって、その荘園を鎮守する神社として発展したという。 かつては「日吉」は「ひえ」と読み、比叡山を意味するのだそうだが、全国に日吉神を祀る神社は2000社ほど存在し、その総社が比叡山の滋賀県側の麓にある日吉大社(大津市坂)である。 神戸町の日吉神社には美しい三重塔が残されているのだが、その総社である日吉大社については、明治維新時の廃仏毀釈で仏教施設や仏像仏具が徹底的に破壊されてしまっている。実は、この日吉大社の廃仏毀釈は、

    神仏分離令が出た直後の廃仏毀釈の首謀者は神祇官の重職だった
  • 江戸時代になぜ排仏思想が拡がり、明治維新後に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたのか

    このブログで何度か明治初期の廃仏毀釈のことを書いてきた。 この廃仏毀釈のためにわが国の寺院が半分以下になり、国宝級の建物や仏像の多数が破壊されたり売却されたりしたのだが、このような明治政府にとって都合の悪い史実は教科書や通史などで記載されることがないので、私も長い間ほとんど何も知らなかった。 梅原猛氏は「明治の廃仏毀釈が無ければ現在の国宝といわれるものは優に3倍はあっただろう」と述べておられるようだが、ではなぜ明治初期に廃仏毀釈がおこり、数多くの文化財を失うことになったのか。 標準的な教科書である『もういちど読む 山川日史』には、明治政府は「はじめ天皇中心の中央集権国家をつくるために神道による国民教化をはかろうとし、神仏分離令を発して神道を保護した。そのため一時全国にわたって廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた。」(p.231)と簡単に書いてあるだけだ。 「廃仏毀釈の嵐」などというわけのわからない言

    江戸時代になぜ排仏思想が拡がり、明治維新後に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたのか
  • 埃まみれの書棚から145

    4. 税所篤(さいしょあつし)と、行過ぎた好古癖 「税所コレクション」といわれることがあるそうだ。 現在、そのようなコレクションが残されているわけではないし、過去にコレクションが公開されたという話も無い。 そのように語られるのは、税所篤が、明治前半期に飛びぬけた好古コレクターであったことを、物語るものであろう。 税所篤(さいしょあつし)は、先に記したように明治9年、堺県が奈良県を吸収した時の堺県令であり、明治20年再設置された新生奈良県の初代奈良県知事であった人物。 (1)税所の好古蒐集と蒐集姿勢への批判 税所篤が、当時のダントツの好古コレクターであったことを示す資料を紹介しよう。 明治21年、当時の美術行政を策定してきた九鬼隆一は、大規模な宝物調査を実施する。 この調査では、寺社所蔵品のほか個人コレクションの目録作成も行なわれた。 このとき作成された宝物目録が、東京国立博物館に残されてい

    blackspring
    blackspring 2015/06/28
     4. 税所篤(さいしょあつし)と、行過ぎた好古癖 /「税所篤の蒐集スタンスについては、激しい毀誉褒貶がつきまとっている。批判的で、これを指弾する声が圧倒的なのである」
  • 廃仏毀釈などを強引に推し進めて、古美術品を精力的に蒐集した役人は誰だ

    前回の記事で奈良の最初の県令であった公家出身の四條隆平(しじょうたかとし)という人物の廃仏政策で、興福寺が多大な被害を受け、内山永久寺という大寺が破壊されたことを書いた。県令というのは大名に代わって地方行政を任された明治政府の役人である。 この四條隆平が奈良の県令の地位にあったのは、明治4年11月から明治6年11月とわずか2年のことなのだが、この県令による廃仏政策で興福寺の門跡寺院であった一乗院、大乗院が廃寺となり、内山永久寺のほかにも、大神神社(おおみわじんじゃ)の神宮寺であった大御輪寺(おおみわでら)も姿を消してしまった。 和辻哲郎の『古寺巡礼』に、聖林寺にある国宝の十一面観音立像は天平時代のもので、かっては大御輪寺の尊であり、この国宝仏がどのような経緯で聖林寺に移されたかが書かれている。 「…この偉大な作品も五十年ほど前には路傍にころがしてあったという。これは人から伝え聞いた話で、

    廃仏毀釈などを強引に推し進めて、古美術品を精力的に蒐集した役人は誰だ
    blackspring
    blackspring 2015/06/28
     「新政府で兵庫・堺・奈良の県令・知事を歴任した薩摩藩出身の税所篤」→http://kanagawabunnkaken.web.fc2.com/index.files/raisan/shodana/shodana145.htm
  • なぜ討幕派が排仏思想と結びつき、歴史ある寺院や文化財が破壊されていったのか

    このブログで何度か明治初期に起こった廃仏毀釈のことを書いてきた。この時期にわが国の寺院が半分以下になり、多くの国宝級の文化財を失ってしまったのだが、そもそも廃仏毀釈が起こる前のお寺や神社がどのような姿であり、一般民衆は廃仏毀釈をどう受け止めたかについて調べていると、高村光雲の文章が眼に止まった。 高村光雲は上野の西郷隆盛像を制作した彫刻家で詩人の高村光太郎の父親でもあるのだが、仏師であった高村東雲の徒弟となったものの、明治維新以後は仏師としての仕事がなくなり、西洋美術を学んで日の木彫技術の伝統を近代彫刻に繋げた人物だと評価されている。 その高村光雲が口述し、昭和4年に出版された『幕末維新懐古談』というがあり、平成7年に岩波文庫で再刊されている。残念ながらその岩波文庫も今では絶版になってしまったが、有難いことに青空文庫で全文を読むことが出来る。 その中に「神仏混淆(こんこう)廃止改革され

    なぜ討幕派が排仏思想と結びつき、歴史ある寺院や文化財が破壊されていったのか
    blackspring
    blackspring 2015/06/28
     高村光雲「幕末維新懐古談」神仏混淆廃止改革されたはなし → http://www.aozora.gr.jp/cards/000270/files/45960_24248.html
  • 廃仏毀釈/しばやんの日々

    江戸時代の安永から天明(18世紀後半)のころに「都名所図会」「拾遺都名所図会」という京都の旅行案内書のようなものが出版されている。このは国際日文化研究センターのWebサイトに原文と図絵と翻刻文があるので、誰でも容易に読むことができる。http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/index.html京都に生まれ育ったので良く知っている場所を中心に読み始めると、いくつかの有名なお寺が消えているのに気づいた。たとえば...

    廃仏毀釈/しばやんの日々
  • 素敵な洋館を撮影してフォトコンテストに応募! 普段入ることができない清泉女子大・旧島津公爵邸の内部を紹介

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