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追記:Firefox 7に対応した記事を書きました。 Firefox 3.5では、Firefox 3からの設定周りの変更があるようなので改めてまとめてみたいと思う。 ツール→オプション→プライバシー→履歴→Firefoxに記憶させる履歴を詳細設定する Firefox 3.5ではまず詳細設定するよう設定の変更が必要らしい。 Cookieを有効にするが、保存期間はFirefoxを閉じるまで ツール→オプション→プライバシー→履歴→サイトから送られてきたCookieを保存する→オン(標準設定) ツール→オプション→プライバシー→履歴→サードパーティのCookieも保存する→オン(標準設定) ツール→オプション→プライバシー→履歴→Cookieを保存する期間→Firefoxを終了するまで 毎回書いてるけど、Firefoxの一番の魅力。Cookieを有効にしていないといろいろと不便になるサイトはよく
取り次ぎの図書館流通センター(TRC)に始まり、書店大手の丸善、ジュンク堂書店、出版社の主婦の友社を傘下に収めた大日本印刷。出版業界へのM&A(合併・買収)、出資攻勢は、今年5月、古本販売最大手のブックオフコーポレーションへの出資で、一応の幕を閉じた。 講談社、集英社、小学館の出版大手3社と協調した出資。合計、約29%を握り、そのうち大日本印刷グループは約16%と筆頭の位置につけた。 発売直後に新品同様の出版物が半値でブックオフの店頭に並ぶ様は、出版業界にとって目の上のたんこぶでしかなかった。株主の立場で取り引きを規制し、業界を守ろうとしているのか。大日本印刷の森野鉄治常務取締役に聞いた。(「大日本印刷がブックオフに出資した理由(前編)」を先にお読みください) (前編から読む) ―― メディア制作のプラットフォームだけではなく、流通の一大プラットフォームも作ろうとしていますよね。そのために
文体には速度というものがありまして、猫かぶり文体でこの問題を考えるのにはどうも速度があわないように感じられます。よって一時的に文体をかえます。ご承知ください>諸賢 1 「法に反する」こと以外のすべては「道徳」の問題であってそんなものに国家や社会は関わるべきではない・・・というのは過度の単純化であって、刑法や民法で処理できることともっぱら個人の自由に委ねられるべきこととの間に、国家や社会が(法よりは緩やかなかたちで)関与すべき&してよい領域がある、と考えることには何の矛盾もない。 簡単にまとめ - apesnotmonkeysの日記 私たちは道徳的な生き物です。道徳的でないということは不可能です。弱肉強食を是とする主義においても、強者が弱者を食い物にすることが倫理的にも正しいという考えがベースにあると考えられます。性差別主義や人種差別主義、外国人や移民の排斥なども、「道徳的」な主張であるとも
間が空いてしまいました。申し訳ありません。『地を這う難破船』を拝読しながら考えたことを書いて見ます。 まず第一に。性の問題はセンシティヴではありますが、聖域と言う訳ではありません。取り扱い注意は礼節の原則によるものであって、絶対ではないでしょう。他人のセックスを笑うな、が礼儀であるのは、相手もまた礼儀正しく、故に私的な領域に留めている限りの話です——そうすれば、お互い差別意識は顔に出すことなく、礼節を守った関係が維持出来る(事実上、可能な唯一の平和的男女関係です)。特殊な性向の主の欲求を満たすコンテンツ制作・流通が産業として成立している場合には、当然、遠慮のない批判や考察に曝されます。しかもそれが社会全体に現に存在し問題とされている差別の構造に、無反省に、ただ乗りしているのでは、文字通り真っ裸にされることもあるでしょう——製作者も、消費者も。 sk-44氏が違うということは百も承知ですが、
⇒リベラリズムと他者危害(追記アリ - 地下生活者の手遊び 流石と思ったけど――やはり私の見解とはこの点で決定的に相違する。 問題の深刻さや被害者の心情を知って、そのうえでなお表現したいことがあるのなら(そういう表現者もとうぜんいるでしょう)、陵辱をテーマとした作品を作ればいいのです。 たとえ表現の自由に紐が付こうと、表現には紐が付かない。私はそう考える。Chim↑Pomのときも書いたけれど、原則論として、表現したい人は勝手に表現するのであって、その表現を社会的な文脈に位置付けるのは他者。「問題の深刻さや被害者の心情を知って、そのうえでなお表現したいことがあるのなら」などという紐は、およそあらゆる表現に対して付いてはならない。だから、雉と射手の存在を同時に肯定してなお事態を収拾する法の執行について述べた。 Chim↑Pomと陵辱エロゲの相違点は、現代アートと商業ということで、だから市場の性
⇒「レイプレイ」と言論の自由 - モジモジ君のブログ。みたいな。 ⇒「レイプレイ」と言論の自由、その2 - モジモジ君のブログ。みたいな。 ⇒「レイプレイ」と言論の自由、その3 - モジモジ君のブログ。みたいな。 そのような話をするのなら、「陵辱」を「陵辱」として愉しむことと人と人の間に暮らすことは普通に両立する、でFAです。「陵辱」を「陵辱」として愉しむことはヘイトスピーチではない。「陵辱」を「陵辱」として愉しむことと人と人の間に暮らすことは普通には両立しない、という結論は「差別意識は顔に出すな」以外のどこから出てくるのか。見当は付きますけど。メディアがメッセージとして機能している以上、ヘイトスピーチに等しい陵辱表現の、その意義を説け――か。 先日、交際相手からレイプゲームについて訊かれて心停止しかけた。ブログが彼女バレしたら死ねるが、そうではなかった、よかった。レイプシミュレータってな
⇒いくつかの失望と怒り - いまだに落ち着きのない三十路(アラフォー) から、id:T-3donさんのコメント。 差別の受容と文脈に関しては、sk-44@地を這う難破船さんも論じていますね。正直、地下猫さんの論との差異が何処で生じるのか今一つよく解らない(からブクマコメントできない)んですが、この後明らかになるのではないかと期待を持っています。いまだ回り道の途上である、と私は考えますので。 ごく簡単に言うと。表現、というのは社会通念のコードに対する異議申立としてある。社会通念のコードをそのままなぞってしまうなら、それは表現ではない。表現論的にはそうなります。無自覚になぞってしまうならそれは素人だし、自覚的になぞってみせるならそれはプロの仕事です。プロの仕事とは、商業ということです。そして、そもそも社会通念のコードが(性差別に限らず)差別的であるとき、その差別性を自覚的になぞってみせるプロの
その他のはてなブックマーク、トラックバックに対する回答として、簡単に。 反ムスリム・プロパガンダは移民差別の問題。宗教の問題=天皇制批判はどうした、ととらえるのは完全にずれている。日本の問題に置き換えるなら、嫌韓問題に近い。幸いにしてそうではない訳だが、もし朝鮮半島や中国大陸の人間が何か特定の宗教を信仰していた場合、所謂嫌韓厨はその宗教を最大限に腐し、在日韓国人・朝鮮人は、嫌韓厨の用語を使うなら当然「ファビョる」だろう。そしてその「ファビョン」は無神論を信奉する日本の嫌韓厨にとっては彼らを貶め嘲笑し罵倒する絶好のネタとなる。もしヨーロッパの主要各国におけるムスリム人口と同じくらいの在日朝鮮人・韓国人人口を抱えていた場合、こうしたヘイトスピーチは今とは比べ物にならないくらいの社会的緊張を齎す。そういう状況をリアルに想像することができないなら、この問題について議論する資格はない。 天皇制につい
⇒2009.6.7: 日記 五十嵐氏の事件を引き合いに出したことは不穏当でした。弁明させていただきますが、雉を撃つな、と言っているのでは私はない。雉を撃つな、とは誰に対しても言いません。誰が何故やったのか、ではなく、官憲が仕事をしないとき表現の自由について国家の法治が公共の利益を実現する、という発想に到底賛成できない、ということです。表現の自由を法治の原則において守ることさえしなかった、あるいはできなかった日の丸の官憲に、公共の利益に基づく表現の自由の制限を委ねることには躊躇します。 日本の官憲は、望むまでもなく、公共の利益を自称してポルノを弾圧してきました。この官憲に対する不信は、当然のことながら外国人排斥(日本においては移民でさえない)と関係がない。むしろ、警視庁草紙以来、弾圧の発想と技術を近代日本に積み上げてきた官憲は、公共の利益に基づく表現の自由の制限によって、マジョリティではなく
なるほど、大分すっきりわかってきました。 「雉も鳴かずば」がそういう意味だとすれば、私の回答はこうなります 1. 雉は鳴くものです。鳴かなければ雉はそもそも存在しない。 2. 鳴いた雉が撃たれることは当然阻止しなければなりません。 3. しかし、雉を撃つな、が、差別を受けているマイノリティ(この言葉は嫌いですが)に対する差別的プロパガンダに利用されている場合、一緒に声を上げるのは御免です。 1. については後述します。2. は当然な話です。問題は3.でしょう。 五十嵐氏の事件を引き合いに出すことは、やや不穏当だと思われます。何か裏情報をご存知なのかもしれませんが、少なくとも私は誰が何故やったのかの確定情報を持ってはおりません。その状況で特定の人々を犯人として名指し、雉を撃つなと声を上げることには、躊躇せざるを得ません。五十嵐氏の事件が反ムスリム・プロパガンダに利用されるのは、訳出の意図を考
⇒2009.6.5: 日記 佐藤亜紀様 ファトワと自力救済はそれは違います。これは、日本の法の問題です。問題は、ある書物を翻訳した日本の翻訳家がおそらくはそのことを理由として日本国内で殺害され、そしてそれは事件解決へと至らなかったことです。つまり、「ムスリム対ヨーロッパ」の文脈を私は問題にしているのではない。『悪魔の詩』を引き合いに出しておいてそれはないだろう、という指摘は受けます。しかしそもそも強姦ゲームの問題は「排他的な信仰に基礎を置く二つの文化が、相互の不信感と敵意は消え去ることがないとしても、当座は潰し合いに至ることなく休戦状態を保つこと」の問題ではないと私は考えるので、その点について、『悪魔の詩』を引き合いに出したことに対する誤解については、正させてください。 言明する必要があると思うので言明しますが、この問題の筋論については、私は所謂「西」の世界――つまり「自由で寛容な社会」を
『地を這う難破船』sk-44様 概ねの論旨については見解が一致したと考えておりますが、まず最初の二つの段落について、誤解を正させて下さい。 ラシュディ事件に限って言うなら、問題は自力救済ではありません。自力救済(というのは後の文脈を引き出すための語だと思いますが、『悪魔の詩』の件に適用するのは不適切です)やむなし、の状態に追い詰め、ファトワという最悪の事態を招き、ムスリム対ヨーロッパというどちらも後に引けない状況を(しかもこれは国外との対立であるばかりか、国内に抱え込むことになる対立でもあります)招かないためにはどうすればよかったのか、という話です。リンク先をお読みいただくのはかなり辛かっただろうとは思うのですが、実際在英ムスリムはイギリスの国内問題として、イギリスの社会と法に従った形で、問題の解決を図ろうと試みた訳です。その結果出て来たのが『冒涜罪』なる、笑うしかないような罪だったとして
⇒2009.6.3: 日記 『悪魔の詩』がそのような小説であることは承知です。当然読んでいるので、ダシにしているのではない。ムスリムが表現の自由を圧殺する、ということではない。そういうのは単に「ゴキブリどもを殺せ」というプロパガンダであり、よく言って偏見の羅列です。問題は、ある表現が誰かの逆鱗に触れたとき、強制力の行使としての「自力救済」を私たちは認めるか、ということです。認める、というのが私の立場ですが、自力救済の範疇に人殺しが含まれうるか。むろん含まれますが、自力救済の範疇に人殺しが含まれることは認めない、というのが私の立場です。五十嵐一氏の事件は時効を迎えました。犯人が出国中は時効停止しますが。 尊敬すべきイスラム研究者であった氏に対して「五十嵐氏はあの本を翻訳しなければよかったのに」と、後から言えるか。当然、読者が言えるはずもない。にもかかわらず、表現が必然的に誰かの逆鱗に触れうる
もういい加減にやめにしようと思っていたのだが、「ルワンダ虐殺のDJ」呼ばわりされては黙っている訳にも行かないので書くことにする。ちなみに『地を這う難破船』氏には常々深い敬意を抱いているし、言論商売人の言論などより一般のブログの方が余程ちゃんとしていると私が確信するに至ったのは、この方を含む何人かのブロガーが一読に値する以上のことを書いているからである。商売人なんて信用しちゃいかんよ、連中、『レイプレイ』問題に関しちゃまだだんまりを決め込んだまんまだろ? この件がどのくらい続くか、どのくらいの収穫の上がる畑か見極めて、事態を左右するには手遅れという段になってから、例によって役にも立たない、故に何を失うこともない、取り敢ず声は上げ続けてるから、という議論で稿料を稼ごうと思案してる最中だからね。そういう姿は教科書問題でとっくり拝ませていただいた後だ。一つ、賭けをしてもいい——この件に関して公のメ
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