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歴史と平和に関するbuhikunのブックマーク (5)

  • 東京新聞:安保法案に反対 安中で市民集会:群馬(TOKYO Web)

    非戦や平和を論じた柏木義円(一八六〇~一九三八年)にちなんだ、安全保障関連法案に反対する市民集会が十五日、安中市内であった。 同志社で新島襄に学び、安中教会の牧師を三十八年間務めた義円は「武備で平和を保障するなど、これほど人を欺く言はない」などと平和の大切さを説いた。 義円の思いを受け継ごうと、市民でつくる「戦争法案に反対する安中市民の会」が開催した集会は、直筆の「非戦」の文字が刻まれる市文化センター駐車場内の碑の前であり、七十人が参加。中島昇太郎会長が「戦争をやらせないぞの意気を発信する起点にしたい」と述べ、参加者が法案反対をアピールした。

    buhikun
    buhikun 2015/08/16
    柏木は新島襄の弟子筋→「平和の使い 新島襄」http://tinyurl.com/p9jnzwj は本当だったんや!
  • 「自虐的」頓挫した平和祈念館 寄贈の戦争資料さまよう:朝日新聞デジタル

    5千点もの戦争資料が、東京都心の倉庫で眠ったままになっている。将来つくる平和祈念館のためにと、都が約15年前に市民から寄贈を募ったが、建設構想は頓挫。多くの提供者が、思い出の品を見ることも、見てもらうこともできぬまま、年齢を重ねている。 港区白金台。 都庭園美術館の敷地を進むと、1933(昭和8)年に建てられた旧朝香宮(あさかのみや)邸がある。その裏手、2階建ての倉庫の中で、資料は桐(きり)の箱に仕分けられ、保存されているという。 「金庫で焼け残った目覚まし時計」「無事を喜ぶ手紙」「機銃掃射を受けた時に着ていた胴衣」 絵画や日記、軍の内部資料とみられる文書なども含め、計5040点に上る。 きっかけは平和祈念館の建設構想だった。都は戦時中の資料提供を広く呼びかけ、97~00年度に281人から3492点の寄贈を受けた。さらに独自に1548点を購入した。 だが構想がつまずき、資料は行き場を失った

    「自虐的」頓挫した平和祈念館 寄贈の戦争資料さまよう:朝日新聞デジタル
    buhikun
    buhikun 2014/08/14
    チ××は突き立て露出してもこういう物はナイナイする、さすがあの方は違いますな(決してほめていない)
  • 『ドラえもん』5巻 「ぞうとおじさん」を語る - 紙屋研究所

    娘が保育園の卒園式で合唱構成「ぞう列車がやってきた」のうちの数曲を唄った。そのあと、保育園の先生たちから「ぞう列車がやってきた」を唄わないかと誘われた。園とは別に市民団体(うたごえ運動の団体)で唄っているやつである。卒園したが4月からその合唱に参加している。ぼくは唄っていないが、娘が通って楽しそうに唄っている。保育園時代の仲間が数人いるので(学校にはあまりいない)、そういう楽しさも手伝っているのだろう。 保育園では「ぞう列車」にかかわる絵を何冊か読んだようだった。 「ぞう列車」というのは、戦争で動物園の動物がたくさん殺され、戦後生き残った東山動物園(名古屋)のゾウを見るために走った、特別な列車のことである。 つれあいはぼくと同じように「見るだけ・聞くだけ」参加であるが、子どもが唄う様子を見たり、それらの歌に親しんだり、合唱構成の全体を改めて知るなかで、「やっぱりこういう古典的な戦後民主主

    『ドラえもん』5巻 「ぞうとおじさん」を語る - 紙屋研究所
    buhikun
    buhikun 2014/04/19
    たしかにこのエピソードでは、ドラちゃんに「タイムスクープハンター」のうどん県の人のような「歴史を改竄してしまうことへの怖れ」が感じられない。まあNHKじゃないからええんか(えっ
  • 47NEWS(よんななニュース)

    「1945年の写真と映像」原爆写真1526枚と動画2公開 広島市、中国新聞社など共同でアーカイブサイト

    47NEWS(よんななニュース)
    buhikun
    buhikun 2012/12/25
    「ジャンプ」で連載始まった時、先ず絵柄で度肝を抜かれた。続いて内容でもry) 貴重な語り部でもあった。合掌<m(__)m>
  • 義父の沈黙 - 恐妻家の献立表blog

    長崎新聞の記事から。 核廃絶「できない」4割、抑止論が壁 長崎新聞社被爆者アンケート http://www.nagasaki-np.co.jp/kiji/20100809/02.shtml この記事の最後に以下のような記述があった。 今もケロイドに悩み「一度ノースリーブを着てみたい」と告白する記述もあった。 周囲の目なんてお気になさらずにお召しください、と申し上げたいところだが、そうもいかないのは被爆者二世の婿としては承知している。 私の義父(の父)は、長崎の被爆者である。身内のことだが、もう半世紀以上前のことなのであえて「歴史」というカテゴリーで記しておく。 義父は当時、熊大学の前身であった理工系の学校の学生だったが、勤労動員で派遣された先が長崎の工場だった。 幸い義父は九死に一生を得たが、たまたま建物の外にいた学友は行方不明になったままだそうである。 爆風で半壊した工場から脱出した

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