雑考4回目は魔法少女もののアニメについて大まかに。 個人的な観点から魔法少女ものの変遷をざっと見ています。 なんだかだらだらと長く書いてしまって、 取り止めがなくなっていることを謝っておきます。 長いので閲覧の際はご注意を。 続きを読む
榊一郎@ノベライズ『サマナーズウォー』1&2発売中♪ @ichiro_sakaki 先日の某専門学校での講義でやった話。何というか、「小説は書きたい。でも何を書いて良いのか分からない」という人が結構居ます。まあ、「そこからかよ!?」と昔は呆れていたもんですが、今はちょっと考え方を変えました。怠惰なのではなく本当に分からないのではないか、と。 #sousaku 2010-12-15 21:02:10 榊一郎@ノベライズ『サマナーズウォー』1&2発売中♪ @ichiro_sakaki まあ言われてみりゃ、ある程度は皆、義務教育で日本語の扱い方は習っている訳で、だからこそ「日本語なんだから書ける」と思ってしまう。その思い込みがあるだけに余計に気持ちが先走るのかなあ、と。 #sousaku 2010-12-15 21:03:18
@headkyoujin AngelBeatsの稚拙さを多くの人が指摘してるけど、それって概ね正しいと思うんだわ。俺もAngelBeatsは糞だと思うし、でもその稚拙さって、逆に言えば正確さって多くの人にとって価値のあるものじゃないんだろうな #angelbeats @headkyoujin 特にアニメ界隈では。それは篠房六郎が体を張って証明してるわけで。AngelBeats絡みじゃなきゃー知らんかった漫画家でさ、コイツの言っている事って間違っていないと思うし、コイツの漫画読んでねーけど、多分良く練られているんだと思うよ #angelbeats @headkyoujin でもさぁやっぱ正しさには魅力がないんだなと思った。いや、それだけでは勝負できんのだろうな。たぶんそれは沢山の人が持っているもので、後天的に会得できるものだからなんだろうな。体系的に得られるものだからか #angelbeat
けいおん第12話を見てあまりにも「感動のフィナーレ」だったため違和感を覚えて一度通して見直してみることにしました。 そして結果理解したこととはアニメ版けいおん!という作品において一徹されている主題は「まったり部室もの」でも「成長サクセスストーリー」でもなく「軽音部の友人達と活動(演奏)することの楽しさ」に他ならないということでした。 今さら何を…と思われるかもしれませんが、全てのピースが埋まった今一度見返してみると至る所にギミックが張り巡らされていることに気づくことが出来るでしょう。 この方向性は明らかに「ほんわか日常系」「まったり部室もの」であった原作と違ったところを進んでいますね。 それではアニメ版が日常系作品であった原作と比較してどのようにして別の道を歩いていったのか、構成上重要な話を挙げながら軽く示していきたいと思います。 § シリーズを通してどのような物語構成になっているのか こ
新世紀エヴァンゲリオンの新しい劇場版を観てきた。 もしも、リメイク的でない話、旧作の続きとしてまったく新しい話をしたならば、それは旧作の知識をおさえておかなければおいてかれる話になってしまう。それを見たパチスロからの新規層は諦めて、今後二作目以降の展開についてこないだろう。 (1) パチスロからの新規層に対しては、旧TV版の基本設定とストーリーを紹介し、怪獣も抜かさずに見せ、今後二作目以降の展開から離れさせずに、ついてこさせる。 (2) 旧TV放映からのファン層は、勝手にTV版との違いに気付いて、クオリティの上がり方に感嘆し、ループ的な設定を読み考え遊び、楽しんでくれるであろう。 今回の劇場版は、上記のような二正面作戦を、リメイク的なループ話でもって狙っているようだ。ややこしいことをするものだ。 TV版と並べると、ある話で強烈な引きをしておいてから一週間待たせて、いきなり減速してみせたり、
先日放映された「フレッシュプリキュア!」のエピソード「みんなで変身!フサフサ大作戦!!」が大変良かった。素晴らしかったといってもよい。この週だけは、ヘビーローテーション回数でハヤテ 2 もケイオンもプリキュアにまったく太刀打ちできなかった。ダラダラと 2,30 回は見たかなー。 ギャグ回というか番外編というか、敵側も普段よりだいぶひょうきん寄りの芝居、主人公たちのおとうさんが頑張るエピソードでもあり、気楽に見ることのできるシナリオに、いいかんじの絵がのっかって、年に 3,4 回あるかどうかの当たり回というやつだろうか。かんたん作画タイトルとしてのプリキュアの魅力(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20070426#p1)も当然捨てがたくあるわけなんだが、そこに良い作画と適切な修正が加わると、神でもかんたんでもないポップでキュートなたのしい作画が出来上がるのか
こないだのアニオタ OFF 会(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20090411#p2)での話を思い出したので書いとく。 実写や 3DCG のアクション映画などでスローモーション演出って珍しくなくなったばかりか、そろそろ表面張力オーバーだろというくらい多用されてしまっているが、手描きアニメーションではあんまスローモーションによるアクションシーンて一般化しないよな、という話をした。 おれの場合でいうと「300」がスローモーション映画すぎて、おもしろいんだけどなんだかなー的な気分になったりした(http://d.hatena.ne.jp/matakimika/20070609#p3)なー。最近の映画でいうと「Watchmen」がやっぱり全編スローモーション映画らしい。スロー部分も通常速度に戻したら 45 分くらいの OVA サイズに収まるんじゃねーの系作品の系
Twitterからの転載・改稿。 CLANNADは、主人公とヒロインが、出会いから恋愛、そして学生生活におけるゲゼルシャフト的関係を通じて、「イエ」という史的・空間的連続性を持つ共同体に包摂され、家族として成り立つという話として読みうるし、またそう読まれがちである。 しかし、CLANNADにおいて「イエ」そのものへの帰属が重要であっても決定的でないことは、妻/ヒロインの実家である古河ファミリーに、主人公である岡崎朋也が参入しない/参入を拒否することから見て取れる。より重要――そしておそらくはメインのテーマであるのは「主人公自らのイエ」への帰属と、その家長としての自意識の形成である、と見るべきだろう。 主人公が古河ファミリーに帰属しないのは、彼自身に「古河のイエ」の一員ではなく「自らのイエ」の家長であるという自覚が無意識的にあるからだといえよう。そのくせ育児放棄とかはしてしまうのだから、主人
大した感慨もなく最終回を見ていたのだが、アニメ『機動戦士ガンダム00』について、これまで考えてきたことをざっと書いておきたい。 まず、この作品のアクチュアリティ(現代性)という点について。この作品は、「ガンダム」という古い物語をいかにして現代という時代に組み込むかということにかなり奮闘した作品だ、ということはひとまず言えるように思う。「ガンダム」というのはどのような作品なのかということを問うた結果が、このような形になったわけで、人類の革新なり何なりというところは、確かに、『ファーストガンダム』のニュータイプ思想というものを想起させて、今回の「ガンダム」も(『ガンダムSEED』などと同じく)、ある種の原点の反復をなそうとしているところがある、というのはよく分かった。 しかしながら、大きな問題なのは、そのような「ガンダム」の核心とでも言うべきものと、現代の国際的な政治状況を始めとした現代的な問
アニメの『とらドラ!』の最終回を見た。今クールは、『CLANNAD AFTER STORY』という、『とらドラ!』とテーマ設定のところでいろいろと重なる作品があったので、『とらドラ!』を見ているときでも、『CLANNAD』とどう違うのかといったことをいろいろと考えながら見ていることが多かった。その点について少し書いてみたい。 『とらドラ!』も『CLANNAD』も家族を問題にしている作品であると、ひとまず、言うことはできる。しかしながら、ここで問題となっている家族というのは、家族というものの自明性が失われた後の家族だろう。つまり、家族という言葉がいったい何を意味するのかよく分からなくなった、そのような地点から、これらの作品が、再び家族というものを捉え直そうとしているように思えるのである。 『とらドラ!』と『CLANNAD』との共通点は、恋愛関係が家族を作ることと密接に結びついているところであ
【解題】 この鈴木研一郎君の『ドラゴンボール』戦闘シーンのスピード感に関わる分析は、僕のような『ドラゴンボール』門外漢にとっても滅法面白い。真面目にそういっているのだ。マニアは随喜の涙を流すことだろう。なぜか。 (1)主観的で視野狭窄的、けれどもそれでそのファン気質に個性が出来している。(2)ひたすらトリビアル――けれどもそれで「個別情景」が着実に浮かび上がり、読者は内容を知らなくとも作品を勢いと熱気に包まれながら、現実体験させられてしまう。(3)分析方法が科学的なのか非科学的なのか実は見当がつかず、どこかで「得体の知れなさ」に対する中間態の笑いが漏れ出す。(4)僕がつけたレポートタイトルにあるように、その「白眉」部分では鈴木君の記述の破壊性が猖獗し、結果、意外なことに「詩」も生まれている。(5)文章全体に『ドラゴンボール』がそうであるようなスピード感が接続されていて、それも書き手の愛の証
■京都精華大学連続講義レジュメ 第五回「反“物語”作家としての大友克洋」(1) 講師 竹熊健太郎 ●70年代から80年代にかけてのマンガ状況 大友克洋は70年代前半にデビューした作家である。最初に、彼がデビューした70年代から80年代初頭にかけてのマンガ状況を整理してみる。この時期はマンガ界にとっては、空前絶後の大変動期であった。簡単にまとめてみると、 ▲青年誌(ビッグコミック、漫画アクション、ヤングコミック等)の台頭により劇画状況が爛熟する。 ▲オイルショックによる経済不況に加えて、青年誌に年長読者をとられ、「少年チャンピオン」「少年ジャンプ」などの新興少年誌に年少読者を奪われて、「少年サンデー」「少年マガジン」が大幅に部数を落とす。 →マンガ雑誌の世代交代が始まる。 ▲男性読者も巻き込んだ一大少女マンガブームが起こる。 →その中心にいたのが竹宮恵子先生ら「24年組」と呼ばれた女性作家た
人は証拠や論理よりも、自分の信じたいことだけ信じる、という話の別例。 宮崎駿の『千と千尋の神隠し』に関しては柳下毅一郎の対談本『映画欠席裁判』その他で書いてきたとおり、娼館を舞台にした物語である。 しかし、そう指摘されると怒る人が多いんだ、これがまた。 主人公は「湯女」として働かされるのだが、国語辞典でも百科事典でも何でもいい。「湯女」という言葉を引いて欲しい。 たとえば『日本大百科全書』にはこうある。 「温泉場や風呂屋にいて浴客の世話をした女性のこと。一部は私娼(ししよう)化して売春した」 『大辞林』にはこうある。 「江戸時代、市中の湯屋にいた遊女」、 『岩波古語辞典』だと「風呂屋に奉公し、客の身体を洗い、また色を売った女」。 「そういう見方もある」だの「そういう解釈もある」だのというレベルではなく、「湯女」とは「娼婦」を意味する名詞なのだ。 ただし、昔から風俗においては初潮前の少女は見
思ったよりは「えー」って終わり方だったけど、とりあえずストライクウィッチーズが終わった。本編については、まあ「えー」ってかんじだったのであんま感想とかは無いんだけど(←「見たことのない展開があればうれしかったけど、特にそういうふうにはならなかったな」程度)、ネットではしばらく前から販促キャチコピーか何かの「パンツじゃないから恥ずかしくないもん!」が話題になっていたようだったので、そっちについてうろおぼえ知識&大雑把世界観に基づく所感とかを書く。 「パンツじゃないから恥ずかしくないもん!」 たぶんテレ東規制の影響からか、TV 放送におけるアニメーションのパンツ露出表現は徹底的に NG という時代があった。「テレ東規制」(テレ東チェックともいう)とはテレビ東京社の倫理規制のことで、それがやたら厳しくなったと記憶されているのは「BLUE SEED」以降。用語として確立してしまっているので、べつに
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