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科学哲学に関するcTakのブックマーク (9)

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    cTak
    cTak 2009/09/03
    『科学者と世界観』
  • ハイエク「デイヴィッド・ヒュームの法哲学と政治哲学」in「ハイエク全集 2−7 思想史論集」 - jmiyazaの日記(日々平安録2)

    春秋社 2009年7月 この「思想史論集」は偶然書店でみつけた。その中にこの「デイヴィッド・ヒュームの法哲学と政治哲学」が収載されていた。これを知ったのは、だいぶ前に読んだ渡部昇一氏の「新常識主義のすすめ」(文藝春秋 1979年)の中の「不確実性時代の哲学−デイヴィッド・ヒューム再評価−」によってである。その当時の世界的なヒュームの再評価を紹介したもので、「英国史」の著者として生前にヒュームは有名であったことをそこで知った。そこでは、現代ヒューム研究の白眉としてこの1963年のフライブルク大学での公開講演「デイヴィッド・ヒュームの法哲学と政治哲学」をあげていた。講演のキーワードとして「構成的主知主義」という言葉が紹介されていた。ヒュームは合理主義を否定したといわれるが、合理主義すべてを否定したのではなく、その中の「構成的主知主義」といういきかたを否定したのだという。この言葉は全集では「設計

    ハイエク「デイヴィッド・ヒュームの法哲学と政治哲学」in「ハイエク全集 2−7 思想史論集」 - jmiyazaの日記(日々平安録2)
  • 進化論が科学であり、ID論が科学でない理由 - 赤の女王とお茶を

    科学が『ニセ科学』を糾弾できない当の理由 進化生物学者と似非科学論者との決定的な違いに関して 師走でバタバタしておりますが、レスしとくべきでしょうから。。 まず科学全般について。 先日「地図」に例えたように、科学とは自然・社会現象を抽象化した「モデル」です。 従って、質的に検証されたり反証されたりするのは個々の事実ではなく飽くまで「モデル」の部分なのです。 そもそも、現実を「抽象化」するのですから、必ず「切り捨てる」部分が生じます。地図が現実の土地でないのと同様ですね。どんな科学実験でも、100%理論と実験結果が一致することはありえませんし、重要視される「再現性」も、100%の一致という意味ではありません。完璧に同じ実験条件というものはこの世に存在しないからです。 あたかも盲人が象を撫でるがごとく、いろいろな人がいろいろな角度から検証してみて、やがてぼんやりとではあるが妥当と思われる世

    進化論が科学であり、ID論が科学でない理由 - 赤の女王とお茶を
  • 合理ゆえに我信ず - 地を這う難破船

    ⇒科学とニセ科学の違いってそんなに重要か? - よそ行きの妄想 (前略)要は人間が信じるか信じないかというだけでしょという点において。宗教も科学も、人間にあたかも世の中に客観的な真理があるかのように思わせる手段に過ぎない。 (前略)下に書いてある通り、科学は科学的ではない。私の認識では巷に溢れかえる擬似科学批判は単なる科学信仰に過ぎない。疑似科学批判に余念がない人は、世の中の人が全員科学を信仰しているとでも思ってやしないだろうか。その<普遍性>も「わからん」。と言っておく。 詐欺とかと関連づけて考えちゃう人の気持ちはわからんでもないけど、詐欺は疑似科学の結果じゃないでしょ。逆。詐欺ありき。疑似科学に罪はないだろ別に。 詐欺の方法論としての疑似科学が「罪深い」のは。――以下数百年を十数行で犯罪的なまでに単純化した記述なのでその点は諸賢の御了承と突っ込みを。 chnpkさんが参照しておられる2

    合理ゆえに我信ず - 地を這う難破船
  • 第3章4節 客観的知識と個人的知識 - 『ハイエク 知識社会の自由主義』サポートページ

    ハイエクと同じ時期に全体主義や社会主義を批判したのが、彼と同じくウィーンに生まれ、ロンドンに渡った哲学者カール・ポパー(一九〇二~一九九四)である。ポパーは『開かれた社会とその敵』(一九四五年)で、社会主義のような「ユートピア社会工学」は、全体を個より上に置いて歴史の必然に身をゆだねる「歴史主義」であり、革命や暴力によって社会を一挙に変革することは危険だと批判した。 一九四〇年代、まだ「進歩思想」と思われていた社会主義を全面的に否定した点で、ハイエクとポパーはよく似ており、彼らは個人的にも親しかった。またポパーの「反証可能性理論」と呼ばれる科学哲学から、ハイエクは影響を受けている。しかし彼らには、少なからぬ違いもあった。 ポパーは、当時の分析哲学の主流だった「論理実証主義」を批判し、理論の正当性を実験的な検証によって裏づけることはできないと主張した。いかに多くの実験で検証しても、次の一回で

    第3章4節 客観的知識と個人的知識 - 『ハイエク 知識社会の自由主義』サポートページ
  • terra incognita : 野家啓一『パラダイムとは何か』/トーマス・クーンの科学観

    人生リハビリ日記。私が最近読んでいた野家啓一『パラダイムとは何か ─ クーンの科学史革命』(講談社学術文庫、2008年)は、以前講談社からハードカバーで出ていた、20世紀の哲学者・思想家を一人一冊で紹介していく「現代思想の冒険者」シリーズのうち、アメリカの科学哲学者トーマス・クーンを扱った一冊をタイトル変更の上で文庫化したものです。 文庫化するに当たってのタイトルが変更されたもっとも大きな理由は、著者の野家氏がこのの意義をクーンの伝記的著述という側面に置いていなかったという点にあるようです。 ……書を通じて私は自分自身が格闘してきた20世紀の科学史・科学哲学の肖像を描き出したいと考えている。そのため書が目指すのは、トーマス・クーン個人の評伝ではなく、クーンの出現によって大きな展開をとげた20世紀の科学史・科学哲学そのものの評伝にほかならない。 その理由の第一は、クーンはその急

  • 特別演習「科学哲学」知識の『客観性』について――カール・ポパーの理論

    特別演習「科学哲学(2)」第2回発表レジュメ 「知識の『客観性』について――カール・ポパーの理論」 宮崎 文彦(今田研M1/政治社会学) はじめに 今回のテーマは「知識の『客観性』」であるが、この問題に対して非常に有益なる貢献を行った科学哲学者の一人にカール・ポパー(Karl Popper 1902‐94)が挙げられる。また彼の場合、単に科学哲学のみに止まらず、そこでの理論を社会科学(方法論)へ応用していることから特に重要になるものと思われるので、ここで取り上げ紹介しておきたい。ただそれだけポパーの理論は広範囲に及ぶものであるので、ここではポパーがいかなる文脈において「科学」(「科学的方法」)というものを考えていったのかという点に絞って、以下のような論点から紹介していきたいと思う。 基的認識「科学と非科学」の境界設定 実証主義批判 可謬主義と客観性 帰納法批判 カール・

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    科学哲学の国際大会の内容をベースに、各自が論文の形で自論を拡張したもの。 クーンとポパーの討論も見られる。 ただし、ポパーの論文は10pほどしかないので、ポパーのクーン批判を見たければ、『フレームワークの神話』などを読んでみるといいだろう。 ポパーとクーン以外にも、ラカトシュ、ファイヤアーベントといった蒼々たる面々の論文が載せられている。 また、クーンのパラダイム概念の曖昧さの指摘と、それに対するクーンの応答として、専門母体と模範例という語を導入している論文も収録されている。 なお、私が見たところでは、二人の意見はそれほど違っているようには思えない。ただ、ポパーは「あるべき科学」「原理としての科学」を軸に論じているのに対し、クーンは「現実の科学」を軸に論じているという点が、二者の対立を生んでいるだけである。これは、ポパーが哲学者であるのに対し、クーンが科学史家であることにもよるだろう。この

    cTak
    cTak 2008/07/05
    「(クーンとポパー)はそれほど違っているようには思えない。ただ、ポパーは「あるべき科学」「原理としての科学」を軸に、クーンは「現実の科学」を軸に論じているという点が、二者の対立を生んでいる」
  • 自然化する哲学 - 池田信夫 blog

    20世紀後半の哲学といえば、構造主義とかポストモダンなどフランス系ばかり話題になるが、実は同じ時期に科学哲学でクーンやファイヤアーベントが展開した「通約不可能性」の理論も、ポストモダンと同じ相対主義だった。そこでは科学も宗教の一種で、どういう理論が選ばれるかは科学者の集団心理で決まる。事実、最近のひも理論は、intelligent designと論理的には同格だ。 すると諸学の基礎であるはずの哲学が、逆に心理学に基礎づけられるということになる。たとえば哲学者がデカルト以来、論じてきた「私」とは何か、という問題も、最近では脳科学で実験的に明らかにされている。今日の科学哲学は、こうした実証科学を参照しないで論じることはできない。極論すれば、脳についての哲学的論議は、脳科学に解消されてしまうかもしれない。これを書では「哲学の自然化」と呼んでいる。 これは哲学だけの問題ではない。人文科学や社

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