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2015年7月13日のブックマーク (5件)

  • 岩田社長の死、世界が悼む 「ゲーム業界の巨人を失った」

    任天堂の岩田聡社長が死去したという知らせは世界を駆け巡った。ソーシャルメディアでは世界のゲームファンが追悼メッセージを投稿し、各国のメディアはニンテンドーDSやWiiをヒットさせた経営者の死を伝えている。 Twitterでは「Satoru Iwata」が米国などでもトレンドに。ハッシュタグ「#ThankYouIwata」ではファンがさまざまなメッセージを寄せている。Redditには多数のコメントが投稿され、ファンが「とても悲しい。彼はレジェンドだった」と悲しんでいる。 テクノロジーメディアのThe Vergeは、岩田氏がHAL研究所の出身で、プログラマとして「バルーンファイト」などを手がけたことを紹介し、社長就任以降は任天堂を大きな成功へと導いたと報じた。 英BBCは調査会社Frost & Sullivanのマーク・アインシュタイン氏による「岩田氏は巨人だった」というコメントを紹介。「岩田

    岩田社長の死、世界が悼む 「ゲーム業界の巨人を失った」
  • 任天堂・岩田聡社長を悼む。 - いつか電池がきれるまで

    withnews.jp 任天堂社長の岩田聡さんが2015年7月11日に亡くなられました。 享年55歳。 発表されていた病名は、かなり予後が厳しいものではありましたが、手術のあとも精力的に活動されていたこともあり、突然の訃報に驚きました。 僕にとっては、殿上人のような存在である一方で、同じ時代を生きた、少し年上の「ゲーマー」として親しみを感じるところも多くて、僕は岩田さんと、岩田社長の任天堂を、ずっと応援してきたのです。 というか、岩田さんは僕も遊んでいたファミコンの『ピンボール』や『バルーンファイト』『ゴルフ』などをつくっていたそうですから、僕のゲーム人生と同じくらい、日テレビゲーム文化が生まれてからいままで、ずっとゲームをつくりつづけてきた人でもあったのです。 まだ42歳で任天堂の社長に抜擢された際、「若すぎる」「経験不足なのでは」という声があがった際に、岩田さんは、プレッシャーを感

    任天堂・岩田聡社長を悼む。 - いつか電池がきれるまで
  • ミントタブレットは自作出来て、他のスパイスでもうまい

    フリスクやミンティアなど、気分をリフレッシュさせるミントタブレット。鞄の中に、オフィスの机の中にと常備してべている方も多いかと思います。 このミントタブレット、自作できます。そして、ミント以外に各種のスパイスを使って色々な味のタブレットが作れます。 使うスパイスによってはかなりうまいです。 1972年生まれ。元機械設計屋の工業製造業系ライター。普段は工業、製造業関係、テクノロジー全般の記事を多く書いています。元プロボクサーでウルトラマラソンを走ります。日酒利き酒師の資格があり、ライター以外に日酒と発酵品をメインにした飲み屋も経営しているので、体力実践系、各種料理、日酒関係の記事も多く書いています。(動画インタビュー) 前の記事:四川発祥の怪味のうまさをあなたは知っているか > 個人サイト 酒と醸し料理 BY 工業製造業系ライター 馬場吉成 website

  • YOOT.COM: 岩田さん、ありがとうございました。そして、さようなら。

    斉藤由多加 (Yoot Saito) さいとうゆたか   東京生まれ。ゲームクリエーター/株式会社ビバリウム。ゲーム作品の代表作は「シーマン~禁断のペット」「大玉」「ザ・タワー」など。ゲーム作品の受賞歴としては、文化庁メディア芸術祭で特別賞、米国ソフトウェア出版協会でCodies賞、Game Developers' Awardsなど。 TheTowerDS が08年6月26日に発売予定   使用カメラ/ライカM8 愛用レンズNoktilux 50mm F1.2など 株式会社ビバリウムのサイトはすこしリニュアルしてwww.vivarium.jpに移動しました。 今日、訃報が発表になった任天堂の岩田社長さん・・亡くなられてしまったんですね・・・。 僕が知りあった頃の岩田さんは、1997年のことですから、スーツを着ていない岩田さんでした。甲府のHAL研にてお会いしました。岩田さんは、ゲーム

  • 追悼:任天堂 岩田聡社長 HAL研究所の天才新入社員と高校2年生の思い出 by 藤本健 - 週刊アスキー

    任天堂の代表取締役、岩田聡さんが亡くなられたというニュースを見て、非常にショックを受けています。あまりにも偉い方になられていたので、もう長年お会いしたことはありませんでしたが、引退されたら久しぶりに昔話でもしに遊びに行こうと思っていたからです。 岩田さんに初めてお会いしたのは、1982年の8月だから33年も前のこと。岩田さんが23歳の新入社員だった時代です。 高校2年生とプログラムを共同開発 高校2年生だった私は、夏休みを使って当時のパソコン、NECPC-8001用にサウンドボードを開発し、それを駆動するためのプログラムを作ったのです。自画自賛ですが、とてもよくできたので、雑誌で見かけた会社に連絡をし、買い取ってもらえないか交渉をしていました。 5社ほど面談に行った会社の中で、第一希望だった会社がHAL研究所。5~6人の小さな会社で、そこで対応してくれたのが岩田さんでした。 結果的に、H

    追悼:任天堂 岩田聡社長 HAL研究所の天才新入社員と高校2年生の思い出 by 藤本健 - 週刊アスキー