大村益次郎 前回は明治二年一月に起きた横井小楠の暗殺事件について書いたが、その八か月後に大村益次郎暗殺事件が起きている。今回は大村益次郎がどのような人物であり、暗殺された経緯について記すことと致したい。 幕末の大村益次郎 大村益次郎は文政八年(1825年)に周防国吉敷郡鋳銭司(よしきぐん すぜんじ)の村医の長男として生まれ、旧姓は村田、幼名は宗太郎と称した。天保十三年(1842年)に防府で蘭医・梅田幽斎に医学、蘭学を学び、翌年には広瀬淡窓の私塾咸宜園で漢籍、算術等を学び、弘化三年(1846年)には大阪の緒方洪庵の適塾に入り医学・蘭学を修めた。 嘉永三年(1850年)に父に請われて帰郷し、四辻で開業して村医となり「村田良庵(りょうあん)」と名乗った。そしてその翌年に隣村の農家の娘・琴子と結婚している。 嘉永六年(1853年)のペリー来航後は蘭学者の知識が求められる世となり、彼は宇和島藩に迎え
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