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歴史と医療に関するchorinskyのブックマーク (2)

  • ゼンメルワイスの物語 - とラねこ日誌

    もしも産科医師が自らの誤った解釈や手技が原因で、来守るべき母子の健康を損なってきた事を指摘されたとすれば、それを素直に受け入れる事が出来るのでしょうか。 それが、人の死と直結するような事であれば、認める事は簡単な事ではありません。どらねこであれば、真っ正面から受け止める事ができず、現実逃避や無理筋な反駁を行ってしまうかも知れません。多くの人にとって、取り返しのつかないような過ちを受け止めることは大変に困難な事であると思います。これは代替医療や根拠のない健康法に嵌ってしまった人が後戻りできない理由の一つであると思っております。ハンガリー出身の医師ゼンメルワイスはそんな罪の意識と闘い、過ちを償うためにその人生を捧げました。 この物語を書くにあたっては、南和嘉男著 医師ゼンメルワイスの悲劇 講談社刊(絶版)を大きく参考にさせていただいております。その他、トールワイド著 塩月正雄訳 外科の夜明け

    ゼンメルワイスの物語 - とラねこ日誌
  • 梅毒500年史、その症状と歴史

    まずは上の画像を見てほしいわけですが。 東京裁判の被告席に並ぶ東條英機(手前)と思想家・大川周明。大川は民間人として唯一「A級戦犯」で起訴されるんですが、1947年4月9日、正式に裁判から除外されました。 なぜかというと、裁判中、大川は東條英機の頭をはたいたり、奇声を発するなどして常識を逸した行動をとっていたからです。大川は梅毒による精神障害と診断されました。(頭をはたく映像はこちら) 梅毒は、戦後にペニシリンが出回るまで、ほとんど完治できない性病として恐れられてきました。いったいどれくらい日で蔓延していたのか? まずは『解体新書』を出した杉田玄白に聞いてみたいと思います。 杉田玄白は、1757年、25歳の若さで江戸・日橋に開業し、町医者になりました。それから隠居するまでの50年、江戸のさまざまな病気を診たわけですが。 玄白が70歳の頃に書いた回想録『形影夜話』(1802年)には、次の

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