奈良県明日香村の飛鳥寺西方遺跡で、飛鳥時代の東西の道路跡と推定される石敷きが見つかり、県立橿原考古学研究所が9日、発表した。645年に乙(いっ)巳(し)の変(大化改新)を起こした中(なかの)大(おお)兄(えの)皇(おう)子(じ)(天智天皇)と中(なか)臣(とみの)鎌(かま)足(たり)が出会ったとされる「槻(つき)の木の広場」のすぐ西側で、橿考研は「広場の景観を復元する重要な資料になる」としている。 農業用水路の改修に伴う調査で、幅2・4メートル、長さ80センチ分の石敷きを確認。10~20センチ大の石が敷かれ、縁石も残っていた。 石敷きは東に約100メートル延長すると飛鳥寺西門跡に達し、約150メートル西には乙巳の変で滅んだ蘇(そ)我(がの)蝦(えみ)夷(し)・入(いる)鹿(か)親子が邸宅を構えたとされる甘(あま)樫(かしの)丘(おか)がそびえる。 橿考研によると、飛鳥寺南門の参道の幅は2・
飛鳥の宮殿に付属する庭園と考えられる明日香村の飛鳥京跡苑池で、今月から県立橿原考古学研究所による発掘作業が進められ、遺構を見学するための通路が設けられている。 県が平成28年度の開園を目指している苑池の復元整備に向けた調査で、発掘の段階から遺構に親しんでもらおうと、整備の基本構想を考える検討会が公開の方針を決めていた。 調査は南北2池のうち北池の東側護岸を見つけるのが目的で、20日までに護岸らしき遺構や池の周辺に敷かれた砂利敷きが見え始めており、建物に伴う可能性もある南北の方位に合った石組み溝(幅60センチ)も出土している。 約500メートル南側の水落遺跡(同村)では奈良文化財研究所による発掘調査の様子も見学できる。
文化庁は15日、奈良県明日香村のキトラ古墳(7世紀末〜8世紀初め)の石室の壁から剥ぎ取ったしっくいについて、泥の下に隠れているとみられる十二支像の「辰(たつ)」(東壁)「巳(み)」(南壁)「申(さる)」(西壁)を確認するためX線調査を実施した結果、図像の有無は確認できなかったと発表した。 文化庁の依頼で東京文化財研究所がX線透過写真による非破壊調査を実施。研究所は「顔料の種類や密度などの条件がそろわないとX線に反応しないため、この結果をもって図像がなかったとはいえない」としている。 キトラ古墳では十二支像のうち「午(うま)」など6種類が確認され、「卯(う)」など3種類はしっくい自体が剥落。残り3種類の存在が期待され、10〜11月に泥に覆われたままの状態でしっくいを剥ぎ取っていた。 文化庁は、有識者による「壁画の保存と活用を考える検討会」を24日に東京で開き、技術的には困難な泥の除去を行うか
古代のロマンを一目見ようと多くの人が詰めかけた越塚御門古墳=11日午前、奈良県明日香村(渡守麻衣撮影) 飛鳥時代の女帝、斉明天皇の孫・大田皇女(おおたのひめみこ)の墓とみられる「越塚御門(こしつかごもん)古墳」(7世紀後半、奈良県明日香村)で11日、現地見学会が開かれた。日本書紀の記述を裏付ける第一級の発見に、午前中だけで1500人を超える考古学ファンが詰めかけた。 斉明天皇の墓の前にある越塚御門古墳の現地見学会場には早朝から長い行列ができ、石室を眺めた人たちは感嘆の声を上げながら、“悲運のプリンセス”とされる大田皇女の人生に思いをはせた。 同県天理市の岡田忠弘さん(65)は「文献の出来事を実際に目にすることができて感動した。近しい人と一緒にいたいという思いが伝わります」と興奮ぎみに話した。 見学会は12日も午前10時から午後4時まで開かれる。近鉄吉野線飛鳥駅から徒歩約15分。駐車場はない
「まさに日本書紀の記述通りだ」。明日香村の牽牛子塚(けんごしづか)古墳(7世紀後半)に接して新たに見つかった越塚御門(こしつかごもん)古墳。9日の村教委の発表を受け、被葬者は、牽牛子塚古墳が斉明天皇と娘の間人皇女(はしひとのひめみこ)、越塚御門古墳が孫の大田皇女(おおたのひめみこ)と確定したとする声が専門家から相次いだ。飛鳥時代の歴史に新たな光を当てる成果に、注目が集まりそうだ。 村文化財顧問の木下正史・東京学芸大名誉教授(考古学)は「日本書紀の記述通りで、疑いようがない。牽牛子塚古墳にとどまらず、他の飛鳥時代の古墳の被葬者像や、飛鳥の歴史全体を考える定点となる」と調査成果の意義を強調する。 越塚御門古墳の石室は、同村にある「飛鳥の謎の石造物」の一つとされる鬼ノ俎(まないた)・雪隠(せっちん)古墳と同型だった。猪熊兼勝・京都橘大名誉教授(同)は、斉明天皇が同古墳から牽牛子塚古墳に改葬された
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(天智天皇)が660年に造った水時計の漏刻(ろうこく)台跡とされる水落(みずおち)遺跡(奈良県明日香村)で、北側に隣接する斉明天皇時代の迎賓館跡とされる石神遺跡に向かって延びる木樋(もくひ)を埋設するために掘ったとみられる溝跡が見つかり、奈良文化財研究所が2日、発表した。 過去の調査で、漏刻で使われた水は木樋を通り、石神遺跡の噴水施設でも利用されたと考えられており、奈文研は「2遺跡が深く関連することが改めて明らかになった」としている。 初めて調査が行われた2遺跡の間の区域では3カ所で木樋を埋めた溝跡が確認された。このうち石神遺跡から南に、水落遺跡から北に延びる木樋跡は連結すると推定されるが、遺構の一部が壊れていて確定はできなかった。 また、漏刻台造営時の整地跡の北面が見つかり、過去の調査と合わせ南北48メートル以上に達する大規模な造成が行われたことも判明し
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く