富山県生まれ、佐賀県育ち。父[1]青木助次郎(歩兵第22連隊隊長ほか)は、葉隠武士道で知られる佐賀藩の足軽の出身で、江藤新平による佐賀の乱、後に陸軍軍人として義和団の乱・日清戦争・日露戦争にも参戦した。その父の厳しい教育を受け、その生い立ちと、横浜事件で逮捕投獄された経験をもとに、戦後は権力への反逆者・反骨者と冤罪事件に関する著作や言論活動を行った。 文化学院卒業。1938年、中央公論社に入社。1944年、横浜事件に連座し逮捕される。戦後は『世界評論』編集長を務め、社会評論活動に入る。 1957年、大宅壮一が創設した「ノンフィクションクラブ」に参加し[2]、初代幹事となる[3]。1974年、日韓連帯連絡評議会代表。1974年に創設された日本ジャーナリスト専門学校の初代校長。 『冤罪の恐怖』と『魔の時間 六つの冤罪事件』で取り上げた合計11の事件は執筆時点ではいずれも冤罪を訴えて再審請求を起