ゲームに関するcomicfanのブックマーク (25)

  • 誰にとっていいゲーム?::Colorful Pieces of Game

    僕の大嫌いな言葉に「いいゲームを作れば売れる」とか「面白いゲームを作れば売れる」って言葉がある。 どうしてこの言葉が大嫌いなのか? 何も考えずに読むと、正しそうに見えるくせに全く間違っていて、しかも有害な言葉だと思っているからだ。 どうして有害だと思うのか? これは質的には、作り手に向けて使われる形の言葉だけど、重要な要素がいくつか致命的に抜けているからだ。 まず、なにより最初に抜けてる要素は売れるってのはいったいどれぐらいなのか? だ。 この言葉、どれぐらい売れれば成功なのかについては、何も定義していない。 黒字ならいい? いやあ、違うだろう。こういう書き方をされるときには「ものすごく売れる」のが前提、つまり50万・100万といった単位だ。つまりいいゲームでないから、50万売れないわけだ。 いったいそんだけ売れるゲームが年間何あると思ってるんだ、と突っ込みたくなるが、さすがに50万は

  • ハドソンがファミコンに参入するまで(5/終)::Colorful Pieces of Game

    これは1983年春に始まり、1984年7月に終わる、ハドソンが史上初のサードパーティとして、ファミコンに参入するときの物語だ。 たくさんの当時の(がつくのが残念だが)ハドソンの方の協力を得て、ほぼ正しい歴史として記述できていると思いたい。 ただし、残念なことに、かなりの方から「自分の名前が文の中に出てくるのは歴史的なことだからいいけれど、誰が言ったかは分かるのはいやだ」といわれてしまったので、最初に名前を出してしまった野沢さん以外はハドソン関係者、ということで伏せておきたい。 さて文。 1983年の秋までファミコンの売れ行きを見たハドソンは、これならイケるということで、サードパーティとしてファミコンに参入するべく、まずファミコンソフトの開発ツールを開発してから、任天堂との交渉に臨むことにした。 複数のハドソンの関係者によると、任天堂とハドソンの交渉があったのはハドソンが開発ツールを完成し

  • ハドソンがファミコンに参入するまで(1)::Colorful Pieces of Game

    これは1984年に、ハドソンが初のサードパーティとして、ファミコンに参加するときの物語だ。 前のポストで、野沢さんの証言を元にブログを書いたら、いろんな人から細かい情報が集まって、どんな風にハドソンがファミコンに参入したのか、そのプロセスはどういうものだったのかを、ようやくその全貌が正しく明らかになったと考えられるようになったので、再度具体的に書いていきたい。 ところで、この記事は、前の物とかなり激しくかぶるのだけれど、前のものを消すとどのように変化したか? が分かりにくく、かつ前回のに付け加えをするには、あまりに多すぎるので、あえて新しい記事としてアップロードすることにした。 あと今回、何人か名前を出して欲しくないといわれた関係者が現れてしまったので、野沢さんの言葉と一緒に、当時のハドソン関係者と、今のところは伏せておくことにしたい。 …って考えてみたら、野沢さんの名前出していいかどうか

  • 現代ゲームデザイナー向け基礎教養本::Colorful Pieces of Game

    の5つの要素技術について、僕が大いに参考にしているを並べる次第。もちろん、自分の浅学菲才をなんとかするために、日夜参考にするレベルw 実は、これ全部横には並べてあるのだけど、なんの説明もしていないも同然だし、一度自分自身の整理もかねてレビューを書いておこうという次第。 もちろん、あなたが天才なら、こんなものいらない。 世の中には、普通の人が壁になって苦しむことを簡単に乗り越えていく超人がウン万人に一人ぐらいいる。そしてそういう人はみんな「え? なんか難しい?」とか平気で言う。 けれど、たいていの人(もちろん僕も含めてw)は、そうじゃない。そして、そうじゃない人にとっては、こういう困ったときに立ち返れる基礎知識はとても大事だと思っている。 ■ゲームエンジン・アーキテクチャ ともかく長い・デカいだけど、近代的なゲームエンジンに必要とされている要素のすべてについて、ほぼ網羅的に解説されている

  • Zorkと弟切草とビジュアルノベル(3)::Colorful Pieces of Game

    続き。やたら長いうえに、どんどん書き直しが増えてきて手間3倍増w ■アドベンチャの復興、そして… こうして消滅したかに見えた日でのアドベンチャが復活を始めたのは、まずPCエンジンの登場による。 (一部アダルトゲーム系では確かにアドベンチャは生き延びていたが、それは単純に絵を大きく見せるためと低予算なゲームを作るためでしかなかったので、現時点では無視する。ただし、この低予算とある要素が結びついて違った形のゲームを最終的には生み出すことになるが、それはあとの話だ)。 というのもPCエンジンには、今までにはない巨大な容量を誇るメディア、CDROMが搭載されており、これにより、今までのゲームでは不可能だった莫大な量のグラフィックとオーディオを使用したアドベンチャを作ることが可能になったのだ(なお、PCエンジンは世界初のCDROM搭載ゲームマシンでもある)。 具体的にはハドソンのデジタルコミック(

  • Zorkと弟切草とビジュアルノベル(1)::Colorful Pieces of Game

    遥か遠い昔に書いたadventureに関する歴史の文が出てきたので、今の最新の知識でアップデートして、再度公開するココロミ。 歴史の中身としては"Text Adventure"から"Graphic Adventure"が登場し、これが日にやってきて最終的にサウンドノベルやビジュアルノベルに至るまでの話。バイオハザードの文を書いたときの副産物だったりする。 ■1970年代初頭-パソコン以前 もともと――コンピュータゲームが出てきたのは1970年代初頭。 その頃のコンピュータは、今の電卓よりマシンパワーがない代物だった。 だいたいUNIX(とおっても有名なOS。linuxのご先祖様)からして、RAMが16キロバイト(間違いではないぞよ)、ハードディスクが10メガバイト(同じく間違いではないぞよ)とか、まあ信じられないほどショボいハードの上で動いていたぐらいなのだ。 このハードウェア構成で想像

  • 1991年1月 浦上進君と日本テレネット::Colorful Pieces of Game

    1991年1月、天外2はいよいよ、実際の開発作業に入るための最終準備段階に入っていた。 実際の作業は市ヶ谷の角川メディアオフィスが入っていたビルの裏にある貸しビルの2F(今でもあったので写真を載せておく)に開発チームが集まって、行われることになっていた。つまりアルファシステムやハドソン北海道の連中からすると、長期出張ってことになる。これは天外2クラスになると、毎月広報などがあるうえに、広井さんも桝田さんも忙しくなっていて、北海道に長期開発チームが集まるのが難しかったのが理由として一番大きかった。 とはいっても新年そうそうだったので、借りた事務所にチームは集まっていなかったが、僕は開発機やらいろいろなもののレイアウト計画やらハードの準備があり、加えて、当然桝田さんや山根との打ち合わせもあったので、それに忙殺されていた。 開発チームのやり方は、ハドソンで覚えた、学校の倉庫などに良く置いてあるス

  • 懐かしのカーレース::Colorful Pieces of Game

    教養ゲーム史について書いたとき、ちょっとカーレースについて触れたら、もっとカーレース…特に2D時代のセガとタイトーのカーレース黎明期のつばぜり合いについて書いておきたくなったので、ここに記しておく。 この話は、僕が9歳からスタートし、最後は18-9歳あたりまで続く、当時2つのゲームメーカーがカーレースについて張り合っていたら、そこに第三のメーカーが現れ、あっつーまにジャンルそのものが過去の遺物になってしまうまでの物語だ。 さて。 僕がテレビゲームと出会ったのは、1973年。2泊3日のハワイ旅行のホテルだった。 小学校4年の夏休みだったので、多分10歳になっていたのだろうと思う。 ホテルに置かれていたのは PONG! 。ただしアップライトではなくカクテル筐体バージョンだった。カクテル筐体だったので上がスモークの茶色のアクリルになっていて、恐ろしくハイテクな印象だった。これがATARIのオリ

  • 教養としてのゲーム史を読んだ::Colorful Pieces of Game

    教養としてのゲーム史を読んだ。 というか、結構、前に読み終わっていたのだけど、ゲームロフトの仕事が忙しくて余裕がなかったので、この文を書くヒマがなかった…というのが正しいところ。 の中身を簡単にまとめると「筆者、多根氏のゲーム史観に従って、ゲームを取捨選択し、テレビゲーム歴史の流れ(の一つ)を浮き彫りにした」ということになる。 選ばれたジャンルとゲームは多岐に渡るけれど、だいたいにおいては妥当と言えると思う。もちろん「アレはいれないの?」と質問はしたくなるわけだけど何を選び、それから何を読み取り、何を書くかは書き手の権利だ。 とはいっても「スペースインベーダーの敵の動きからスクロールゲームは完成した!」なんてポカーンな事が書かれていれば「この書き手は、なんも調べず書いているのか!?」とか突っ込みたくなるトンデモって話になるけれど、選ばれているゲームはちゃんとしているし「それはちょっ

  • ドラゴンクエスト1(3/終)::Colorful Pieces of Game

    前回は習作に近いドラクエ1だが、その中に強烈なオリジナル要素があり、それが死の概念の扱い方だという話を書いた。 ドラクエ1以前はRPGの死には2種類あり「死んだらキャラクタが消滅する(ウィザードリィなど)」と「死んだら最後のセーブまで巻き戻る」で「おお XX しんでしまうとは なさけない おまえに もういちど きかいを やろう」というセリフと共に生き返るドラクエは実はすごくオリジナルだった。 そして、これはプレイアビリティ・ユーザー層・当時のマシンの貧弱なリソース、そしてさらにこれから書く理由を勘案して「死んだら、お金半分」を採用したと思われる…つーところまで書いたわけだけど、今回はその理由。 確かに市場の要請と技術的な問題があったのは疑いもない事実だろう。だが市場の要請やマシンのリソースが「死んだらパスワードを入力させる方式(コンティニュー)を取らない」とする決定的な理由には全くならない

  • ドラゴンクエスト1(1)::Colorful Pieces of Game

    実は発表するあてもなく、ゲームについて書いている文章がたまっているので、それをブログにでもアップしていくかという試み。一時「XXなゲームライフ」って同人誌を作っていて、それの延長上みたいなもの。 調査が甘く、記憶に頼って書いているところがあるので、間違いなどがあるかも知れない。 もし、そういう間違いがあったら教えていただきたい。 今回は「ドラゴンクエスト1」…その1。 ファミコンにおける、いや日におけるRPGブームの火付け役であり、日のRPGのほとんど全てに対しての、恐ろしいほど沢山の常識を作ったゲームである。 まさに日の「コマンド型RPG」の元祖と呼ぶにふさわしいゲームなのだが『ドラゴンクエスト』(1986.5.27/ファミコン)について書くためには、まずなにより発売された時代の背景を知らなければならない(以後ドラクエ/DQ)。 ドラクエ発売より2年ほど前の1984年頃。ファミコン

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  • ゲーム屋が海外で就職する方法(2)::Colorful Pieces of Game

    と、こういう流れがあって、今、僕は6のところにいるので「まあオッケーかな」と書いたわけだ。 ところで一つだけ注意しておくのが海外の就職活動は良くも悪くも「コネ」にものすごく影響される。 それも日のコネではなく、コネクション、文字通り人と人の繋がりだ。例えば今回の就職活動がその典型例で、いろいろあって会社辞めたとFacebookに書いたら、数年前に韓国で一緒に仕事したスタッフが僕を会社の上司に推薦してくれて、jobに送ってくれ…という話を始めたわけだ。 もちろん、それ以外のぶっつけ番もありだけど、この話があるとないとでは突破できる確率は当然変わる。で、このコネクションを作るのに役に立つのがFacebookとlinkedin。海外で就職する気があるのなら、絶対にこの2つのSNSはやったほうがいい。特にlinkedinは仕事をする上ではとても役に立つ。 あと、僕のfacebookもしくはli

  • ゲーム屋が海外で就職する方法(1)::Colorful Pieces of Game

    故あって、勤めていた会社を辞めてしまった。 この辞めた経緯が、人は心底腹が立つのだけど、端から見るとものすごく面白い話なので、そのうち顛末を(NDAに触れないように)このブログにでも書きたいのだけど、それはともかく「辞める」といったら、結構大手めの海外スタジオから声をかけてもらったので、ちょっと就職活動していた。 今のところは出来れば日仕事をしたいと思っているのだけど、別に海外でもいい…というか、海外スタジオで少なくとも「あとはcontractするだけ(よほどのとんでもないことがなければ通った状態)」ってところまで来たので、もしかしたら9月の半ばぐらいにはまた韓国暮らしになる可能性が十分にあったりなかったり。 それで、ちょうど就職活動をしたのと、僕は海外仕事出来る人は仕事をするべきだと思っているので、 海外でリアルに就職するとき── ──について自分の覚え書きも兼ねて書いておきたい

  • 大きいことはいいことか?(1)::Colorful Pieces of Game

    Re:ゼロから始める ゲームシナリオ ライトニング伝説 さよならハドソン ドラクエとFFと ToHeart 誰得ゲームライフ ときめきメモリアル の時代 イースI・II製作メモ ■頒布ページ■

  • 昔話のまとめ::Colorful Pieces of Game

    Re:ゼロから始める ゲームシナリオ ライトニング伝説 さよならハドソン ドラクエとFFと ToHeart 誰得ゲームライフ ときめきメモリアル の時代 イースI・II製作メモ ■頒布ページ■

  • 焼きそばと海外版イースとオッパイパイ::Colorful Pieces of Game

    あいざわひろしの話によると、ちゃくちゃくと発送しているらしいです。 通販自体は6月30日で締め切るそうなので、あっしのイースのが欲しい方はどんぞ~ん。 ■通販ページ ところで通販しているイース制作メモは20年以上も昔の記憶ですから、結構ポロポロと間違いがあるわけですがw スタッフの百田に連れて行かれて辟易とした焼きそば屋の場所を間違っていたことがわかりましたw オーロラタウン(大通りの地下)にあったつもりだったのですが、すすきのだったようです。 ツイッターで昔暮らしておられた方が教えてくれました。 …そしてなんと驚くべきことに… 今でもある事実が!w リンク先を見ればわかりますが、アホっぽい盛りで、百田のヤツは「通は焼きそばをソースだけでべるんですよ」とかいいやがって、量は多いわ、麺はイマイチ(当時の話っすからね!)だわで、全くスタッフを辟易とさせたわけですが…やっぱり、このアホっぽい

    comicfan
    comicfan 2011/06/29
    オッパイパイの謎が解けた!
  • 故・多摩豊氏の名誉のために批判する::Colorful Pieces of Game

    Re:ゼロから始める ゲームシナリオ ライトニング伝説 さよならハドソン ドラクエとFFと ToHeart 誰得ゲームライフ ときめきメモリアル の時代 イースI・II製作メモ ■頒布ページ■

  • PCエンジンの開発システム(写真)::Colorful Pieces of Game

    僕の古くからの知り合いに飛田さんという人がいる。 今でもハドソンにいる人で、有名なところでは桃太郎伝説などのさくま先生の一連のシリーズを手がけている天才肌のプログラマーなんだけど、この人が約20年前に発売された『月間PCエンジン』の付録の『ハドソン全科』(1990年初頭と思われる)がたまたま発掘されたということで、それをスキャンしてPDFにしてくださった。 この中に、今までいくら探しても見つからなかったハドソンの作った開発ハードHu7とHu7CD、さらに和泉さんが作ったDF(グラフィックエディタ)の写真が載っていたので、そこを切り出して、簡単な解説を加えて、資料として残しておきたい。 なおDFについては、それだけで1記事になってしまうので、別記事で。 ■関連記事 ■PCエンジンの開発環境(ROM) ■PCエンジンの開発環境(CDROM) ■PCエンジンの開発環境(補足) ■Hu-7■ プロ

    comicfan
    comicfan 2011/06/21
     こんなの使ってたのか…
  • 星恵太君のこと::Colorful Pieces of Game

    今まで、ほとんど、このブログに出たことがなかった人の話をちょっと書きたくなった。 この記事のタイトルにもなっている星恵太君のことだ。 星君は、僕がハドソンでお金をもらって関わった仕事4作(凄ノ王伝説・イース・ボンバーボーイ・天外魔境2)+1個(CDROMシステムカード)のうち、3作にかかわったサウンドアーティストだ。 …と書いても、今と当時ではサウンドアーティストの仕事がぜんぜん違うものになっているので、ちょっと当時(1990年代後半まで)のサウンドアーティストの話を書いておく。 当時のサウンドアーティストってのはどんな仕事をするのかというと、今のゲームマシンで仕事してる人には信じられないだろうけれど、ものすごくプログラマに近い存在で、かつ効果音と曲の両方を作る人だった。しかも、たいてい作曲までやるのが当たり前だった。どうみてもムチャだ。 こんなムチャクチャだったのも、かなり特別な人でない