【8月17日 CNS】中国・青海省(Qinghai)玉樹チベット族自治州(Yushu Tibetan Autonomous Prefecture)新寨村(Xinzhai)には、チベット仏教の経文を石に彫り、高く積み上げた「マニ石経城」を見学しようと多くの観光客が訪れる。 マニ石経城は紀元1700年頃、チベット仏教の高僧であった嘉那活仏により創建されたもので「嘉那マニ石経城」と呼ばれる。 史的文献によると、嘉那活仏はカム(Kham)地方の出身で峨眉山(Emeishan)と五台山(Wutaishan)で修業をし、チベットの聖地を巡り礼拝したとされる。 嘉那活仏は200年前に新寨村にたどりつき、チベット仏教の神聖な「六字真経」が自然に現れるマニ石を発見し、同村に住みついた。僧侶や民衆と共に、マニ石を彫って一生を過ごしたと伝えられている。 現在、石経城に積み上げられたマニ石は東西283メートル、南
平安時代後期頃に書写された 大般若経 ( だいはんにゃきょう ) (600巻)に、鎌倉時代の 元寇 ( げんこう ) (蒙古襲来)で捕虜となったとみられる中国の軍人が、経典の修正などに携わったとする記載があることが、大阪府和泉市教育委員会の調査でわかった。元寇の捕虜は処刑か奴隷にされたとするのが通説だが、専門家は「重用された人がいたことを示す史料」と話している。 同市教委は、市内の寺が所蔵する大般若経を2007年頃から調査。このうち「巻第四百九十八」の末尾に、「大唐国江西路瑞州軍人何三於」「弘安九年四月上旬日補整」と、経典本文とは別の筆跡で記されていた。 弘安9年(1286年)は、2度目の蒙古襲来「弘安の役」の5年後。市教委によると、江西路瑞州は現在の中国江西省瑞金市付近とみられる。「軍人」とわざわざ記していることから、弘安の役で捕虜になった「何三於」という人物が、経典本文の修正や、経典の
大谷大(京都市北区)は、大学で所蔵するタイの仏典写本「大谷貝葉(ばいよう)」を報道陣に公開した。ヤシの葉に、仏教の経本などをパーリ語で書き写した貝葉写本を64点所蔵するのは、国内の大学・研究機関で最も多く、世界でも珍しい。 大谷貝葉は17~19世紀の写本を集めたもので、1900(明治33)年、タイ国王のラーマ5世から東本願寺第23代法主、大谷光演へ寄贈されたものとされた。 ただ、最近の研究で10年前の1890(同23)年ごろ、真宗大谷派の僧侶、生田(織田)得能がタイ留学から帰国する際、タイの貴族から同寺第22代法主、大谷光螢へ受け渡しを託された可能性があるとした。 大谷大の清水洋平・真宗総合研究所特別研究員は「貝葉は東南アジアで散逸が進む中、大谷大のコレクションは貴重で、工芸品としても価値が高い」と説明。来年の日・タイ修好130周年に向け、両国の仏教文化などをさらに読み解く資料になるという
(法藏館・5184円) 戦時中の東南アジアで、日本の仏教者が占領地支配にどう関与したかをまとめた。従来は、朝鮮半島や中国大陸での各宗派の布教史などの研究が目立ったが、本書の対象地域では、僧侶らは宗派を超えて動員・派遣され、主に現地の宗教調査や僧侶、一般人への文化工作、いわばソフト・パワー的な活動に従事した。 具体的な人物の動きに注目した章が多い。西欧留学経験のある僧侶もおり、仏教者、研究者としての良心をぎりぎりで守りつつ活動したように読める例が目立つ。戦時中の体験から、戦後はベトナム反戦で活躍した人もいる。他方、平安時代にインドへ向かう途中で死んだ真如親王は、南方進出熱の高まりと共に顕彰の動きが拡大した。シンガポールに大仏のような像が計画され、「大東亜各住民」の「宗教を超越し」た聖地を目指した。南方… この記事は有料記事です。 残り135文字(全文490文字)
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