シリーズ「クルド人の風景」では、日本で報道が少ないクルド地域について、毎月専門家がやさしく解説していきます。(協力:クルド問題研究会) オスマン帝国の末期とその後の中東では、「民族」が大きなテーマとなった。新たな国が名乗りをあげていくなかで、その潮流に乗り遅れたのがクルドだ。理由は多々あげられる。帝国の辺境にあって民族主義が遅れてやってきたこと、アラブ、トルコ、ペルシャという中東の三大民族がせめぎ合う狭間にクルディスタンが存在する不運、クルド同士で繰り返す覇権争いの愚。 さらに、いったん引かれた国境を変えることは安定した秩序を乱すから、国際社会がこれを応援することはない。ましてやクルドを内包する国が自国の領土をクルドに差しだすはずがない。ところが、1世紀にわたってクルディスタンの内部に縦横に引かれていた堅固な国境が、揺らぎはじめた。 クルドとクルドを内包する主要国(トルコ、イラク、イラン、
![クルド・国なき民族のいま――シリア北部は「民主連邦」の実験場/勝又郁子 - SYNODOS](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/35deb3e2a7f9ef1374239e3dadb0236181aee4a3/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fsynodos.jp%2Fwp2%2Fwp-content%2Fuploads%2F2021%2F06%2F4197c90c66f8afd1582095c52b93aa57.jpg)