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Web論と*noon75に関するcrowserpentのブックマーク (5)

  • 読まれるという奇蹟 (セックスなんてくそくらえ)

    どんなブログにも、最初の読者というものはいる。 一日数千のアクセスが普通になってしまったブロガーにも、忘れがたい読者というものはいるだろう。私にとっても最初の読者というものがいたし、その人は忘れることのできない記憶としてある。 男が童貞を捨てた相手を忘れられないように--余談だが、女とは処女を捨てた相手をすぐに忘れることができる生き物だ--ブロガーにとって、最初にそのブログが読まれた体験、言葉が届いた体験というものは、忘れがたいものである。 エントリというものは文章がそこに置かれているだけで価値がでるものではない。例をあげれば、たとえばあなたの部屋には、読んでもいないが山となって積まれてはいないか。 そのはあなたが偶然手にとって読み、そこにあなたのために書かれた一文を発見したとき、初めて価値あるものとして光を放つのである。 読むということはそういうことではないか? それは一度限りのかけ

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    crowserpent 2007/06/18
    「私たちは読むということが21世紀においてどのような意味を持つのか、自分たちの手でゼロから考えなければならなくなった。」
  • 坂のある非風景 傷の共有

    Author: M ペンを折ることさえ、ここではもう「別の手段による詩の継続」を意味しているにすぎないという宿命に、それからも耐え続けた。 freezingm▽gmail.com ■犠牲とはなにか。「他者の傷を癒すこと」である。他者というのは大文字の他者も含むので、いつもそこが問題になる。アメリカによって傷を負わされてきたイスラム諸国の傷を癒すためにムスリムは貿易センタービルに突入し、その事件で傷ついたアメリカ(の威信)の傷を癒すためにアメリカは国民から軍人をせっせと作りだしてアフガニスタンに侵攻する。ここにあるのは暴力に暴力で応じたという動物学的な、条件反射的な構図ではなく、犠牲に犠牲で応じるというあまりに心理学的な、人間的な構造だった。 ■そして犠牲について考えることから行き着くのは「傷の共有」といった問題である。ここでは大胆に、その傷の共有こそがイデオロギーの基盤を形作るのではないか

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    crowserpent 2007/06/15
    日本とアメリカのブロゴスフィアの違いに見る、「意見表明」の持つ意味の差について。
  • 忘れ難きなれなれしい人々 (セックスなんてくそくらえ)

    ブログには非常に不思議な人々が住んでいて、それはブログに書かれている個人的な出来事をあたかも自分のことのように受け止めてしまう人々で、彼らはまるで作者が自分の10年来の友人であるかのように振る舞い、ひどいときには同情したり心配してくれたりするのである。書き手から見ると、いや、あなたのことは何も知らないのでそんなものは受け取れないと思うのが普通だろう。 こういった親和性、言い換えればフラットさがネットの良いところとノンキに考える人々が大多数な中こういうことを言わせていただくのは大変恐縮なのだが、別にこれは新しいことでもなんでもなく、テレビで特集されている芸能人に親しみを覚え、赤裸々な性体験を語る作家になれなれしく口をきくワンフとさほど変わらない光景であるとは言える。書き手と読み手の間には無限の欠落があり、越えられない壁がある。 むろんそれはどちらが上といういつまでも繰り返される書き手の優位幻

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    crowserpent 2007/05/27
    「自分たちが幸せであるからという理由で、相手にも同じものを押しつけて無料で売りつけようとする。なんというおめでたい人々だろうか。」
  • 今この愚かな時代にブログで書くということ (セックスなんてくそくらえ)

    書くということはますます困難になってきている。 あと数十年もすれば21世紀初頭の日漫画とアニメとゲームの時代として記憶されることになるのかもしれないが、それはすなわち言葉が徹底的に軽視された時代だったということである。すでにある文芸作品をオマージュという都合のよい言葉で焼き直し劣化コピーし借用した言葉を自分の都合のよいように流用して切り貼りした図々しい「作品」ばかりが流通し、消費され、しかもその速度はとどまるところを知らない。 この時代を覆い尽くす恐るべき消耗品としての作品の持つ空疎さを必死になって肯定的に読み解こうとすれば、それはもはやサブカルチャーの礼讃に走るしかない。たとえばそのような文芸評論家も実在していることを私たちは知っている。インターネットという場は自らの厚化粧を褒めてくれるブサイクな男を喜んで受け入れる娼婦のように、股を開いて文芸による権威付けをその緩い性器の中に導いた

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    crowserpent 2007/05/21
    「言葉とは、何一つ伝えることができないという絶望の中でのみ、光を放つものではなかったのか。」
  • もっとも空疎なネットの代弁者、平野啓一郎―『ウェブ人間論(梅田望夫、平野啓一郎)』書評 (セックスなんてくそくらえ)

    このとてつもなく空疎なについて、何から語り始めるべきか。 僕がこのの存在を知ったのは、(株)はてなの取締役を勤める梅田望夫が、ブログにおける特権階級でありエスタブリッシュメントでありソープランドのお得意会員がごときアルファブロガーおよびその他有名ブロガーたちに、献という形式でをばら撒いたことがきっかけである。正式な発売日前にこのを無料で献されたブロガーたちが嬉々としてこの「ウェブ人間論」という駄作の批評ならぬ感想文をインターネットにアップロードしこれを絶賛している様子を見たとき、僕がの内容を知る前にまず不愉快に思ったのは、ブロゴスフィアが梅田というIT業者の宣伝道具、広報道具と堕している姿であり、ある程度は無償でエントリを書くことに意義を見出すブロガーたち、たとえば小飼弾やfinalventなどといった者たちすらも、かくも簡単に業者のマーケット・ツールとして利用されている様は

    crowserpent
    crowserpent 2006/12/19
    正午氏は「作家」という人種を過大評価してる気が。/実際読んでみると、正午氏がなぜ「作家性」に拘っているかは理解できた。
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