読むということは、それだけで、常に何か、認識の変化に自分を晒すということだと思っている。 与えられた情報が公平さを欠くということに対して、これは情報操作だ、と憤る気分というのはわかるのだが、自分自身に関して考えると、右に傾けられれば右かなと思うし、左に傾けられれば左かな、とも思う。 どのような解釈も、答えのない相対的な主張(aka.洗脳合戦)に過ぎないのだからそこに公平さを求めても無駄だ、というつもりはないし、公平さを求める努力は貴重だと思う。 しかし「偏っているかも知れない意見」を読んだとき、自分の中に生まれるのは、公平さを希求する感情よりも、多様な読みへの欲求のほうが強い。右という人の意見を読んだら、左という人の意見を読みたくなる。あの子はいじめを苦に自殺したのだ、という意見があったら、そうではない読み方は出来ないのか、考えてみたくなる。 本を出版したり報道したりする人が、偏らないこと