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2006年10月7日のブックマーク (3件)

  • 事実を検証するのめんどくさい派の主張 - 焚書官の日常

    読むということは、それだけで、常に何か、認識の変化に自分を晒すということだと思っている。 与えられた情報が公平さを欠くということに対して、これは情報操作だ、と憤る気分というのはわかるのだが、自分自身に関して考えると、右に傾けられれば右かなと思うし、左に傾けられれば左かな、とも思う。 どのような解釈も、答えのない相対的な主張(aka.洗脳合戦)に過ぎないのだからそこに公平さを求めても無駄だ、というつもりはないし、公平さを求める努力は貴重だと思う。 しかし「偏っているかも知れない意見」を読んだとき、自分の中に生まれるのは、公平さを希求する感情よりも、多様な読みへの欲求のほうが強い。右という人の意見を読んだら、左という人の意見を読みたくなる。あの子はいじめを苦に自殺したのだ、という意見があったら、そうではない読み方は出来ないのか、考えてみたくなる。 を出版したり報道したりする人が、偏らないこと

    事実を検証するのめんどくさい派の主張 - 焚書官の日常
  • “オタク”を自称する人達の、千差万別なオタ基準 - シロクマの屑籠

    オタクを自称する人が増えている。「俺はオタクだ」「オタクとして僕は云々」といった言葉は、ネット界隈やコミケ会場を飛び出し、「ん?どこにオタクがいるのかな?どこにもいない気がするぞ?」という空間でさえしばしば聞かれるようになった。例えば私の場合、秋葉原で店頭ディスプレイに群がっている人達が「俺はオタクだ云々」と言っていてもあまり違和感を感じないが、松屋のデパ地下で買い物している女性が「あたしって惣菜オタクだから」とか言っているのを聞いた時は“はぁ?”と思ってしまいがちだ。こうした現象は「一人称としてのオタク」の基準が個人個人でいかに違っているのかを端的にあらわしていると思う。 では、オタクを自称する時、人々は何をもって「俺はオタクだ」「私はオタクです」と定義づけているのだろうか?このテキストでは、その千差万別な「自称オタク基準」について幾つかの類型を紹介してみる。 基準1.何かのジャンルが好

    “オタク”を自称する人達の、千差万別なオタ基準 - シロクマの屑籠
    cubed-l
    cubed-l 2006/10/07
    これだけ時間が経てば分化はするでしょうね。対外的に団結するのに便利な言葉でしかないかと/萌えも分化してきてるなぁ
  • 坂東眞砂子さんの子猫殺し問題:雑感

    殺し(坂東眞砂子さん 2006-08-18) 直木賞作家「子殺し」告白、日経へ抗議殺到(イザ! 2006-08-24) 小説家の坂東眞砂子さんが日経済新聞紙上で公開した、飼いの避妊手術を拒否しつつ飼いの生んだ子を殺していることを告白したコラムは、ウェブで大きな反響を呼んだ……らしい。子を殺すことは、避妊手術をするより重い罪である、と多くの日人は考えるのだそうだ。 私が坂東さんの作品に初めて触れたのは高校生の頃。伝奇小説の枠内に概ね収まる初期作品が私の読書傾向に見合っていて、「死国」や「狗神」などを楽しく読んだ記憶がある。しかし直木賞受賞後の展開は私にはやや高級すぎたかも。かの傑作「桃色浄土」のバランスがマイベスト。 ペット気違いども(小谷野敦さん) 何かもっと説得的な反論はないですか?(id:dojin さん) 小学校の教室。天敵のいない水槽でメダカを飼うと、メダカの親は