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ブックマーク / mutronix.hatenadiary.org (3)

  • ブクマ話で全力でDISりたい部分 - 焚書官の日常

    (註:ブックマークされたので補足。ここと合わせて http://d.hatena.ne.jp/mutronix/20080604/p2 もお読みいただくと、多少意味が通じるかも知れません) 最初読んだだけでは、それが自分にとって、どういう意味を持つのかがまだわからないエントリというのが、けっこうあって、そのことを私は問題にしたいんだなぁと思った。 そういうものに「人生」「ネタ」「もめごと」みたいなタグを振るという行為は、ものすごい妥協なのだよね。妥協ってわかってやってるならともかく、だんだんタグを振ることが自己目的化していく。 で、ふと我に返って自分に突っ込む。「お前、後で自分のブックマークを「人生」とかいうタグで検索して眺めんの?」うへぇ。 ある文章が、自分にとってどういう意味があるかっていうのは、タグづけじゃフォローできない。 とりあえずピンときたものを何かにしまっておくのが、せいぜい

    ブクマ話で全力でDISりたい部分 - 焚書官の日常
    cubed-l
    cubed-l 2008/06/12
    どういう話にふくらむかわからないから関連しそうなタグを複数使う/修正したって別に構わない
  • 事実を検証するのめんどくさい派の主張 - 焚書官の日常

    読むということは、それだけで、常に何か、認識の変化に自分を晒すということだと思っている。 与えられた情報が公平さを欠くということに対して、これは情報操作だ、と憤る気分というのはわかるのだが、自分自身に関して考えると、右に傾けられれば右かなと思うし、左に傾けられれば左かな、とも思う。 どのような解釈も、答えのない相対的な主張(aka.洗脳合戦)に過ぎないのだからそこに公平さを求めても無駄だ、というつもりはないし、公平さを求める努力は貴重だと思う。 しかし「偏っているかも知れない意見」を読んだとき、自分の中に生まれるのは、公平さを希求する感情よりも、多様な読みへの欲求のほうが強い。右という人の意見を読んだら、左という人の意見を読みたくなる。あの子はいじめを苦に自殺したのだ、という意見があったら、そうではない読み方は出来ないのか、考えてみたくなる。 を出版したり報道したりする人が、偏らないこと

    事実を検証するのめんどくさい派の主張 - 焚書官の日常
  • サブプロセスとしてvmekkenを走らせることができる理由 - 焚書官の日常

    昨日のエントリは後半小二化して茹だった頭で書いていたのでどう誤読をうけても仕方ない。(いや、そうじゃない時などないですが) いろいろフォローをしたくなるのだが、前提としてわたしが何故vmekkenに考えを乗っ取られないか、その理由を書いておく。 あのエントリの後半の蛇足が、「論理的なvmekkenに追いつめられたわたしが、大声(太字)で切れている」かのように思われたのであれば、それは心外だ。vmekkenには大きな屁理屈の穴がある。わたしはその穴から手を入れて、vmekkenをパペットとして操作することができる。vmekkenの主張をおさらいしてみよう。 「ブログというのは、一度書いてしまったら、<web2.0>によってすべての情報が浚われて再構成されてしまうものだ」 これは正しい。 「その流れは止められない」 これも正しい。ここまでは、vmumedamochioと互換でもある。 「その結

    サブプロセスとしてvmekkenを走らせることができる理由 - 焚書官の日常
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