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ブックマーク / www.highriskrevolution.com (10)

  • 某プログラマが某有名ファミコンゲームのソースをgitに公開したの巻 | Colorful Pieces of Game

    ツイッターでポロっとつぶやいたのだけど、ここでも記事をば。 某プログラマが34年前に発売された某有名ファミコンゲームのソースをgitに公開したので、以下にリンクを置いておく。 GitHub - omuanko/nnjhtrkn: Famous Ninja game for NESFamous Ninja game for NES. Contribute to omuanko/nnjhtrkn development by creating an account on GitHub. 某プログラマからの箴言は以下。 ■某プログラマ ちなみに びるど とおりますうご(www act65 を cpm86 エミュで 試してみた ソース見られるの恥ずかしい いまさらおそいか ちなみに act65は つけてないよ どっかで ひろってね ところで、イマドキな方には全く理解できないことがいろいろあるだろう

    dekaino
    dekaino 2020/01/13
  • Hi-Tenボンバーマンの作者と制作環境 | Colorful Pieces of Game

    高橋名人が世界初のハイビジョン専用ゲーム『HI-TENボンバーマン』のディスクを入手。ゲーム保存協会へ保存 この記事(元になっている高橋名人のブログ記事)がツイッターのTLに流れてきた。 それでTLで聞かれたのが「ソースは残ってないんでしょうかね?」 こういうのは元ハドソンのいかにもやってそうな人たちに聞くに限る… というわけで、ちょっとfacebookで聞いてみたところ、いろいろ細かいことが分かったので、記事として残しておきたい。もちろん、みんなにOKはもらっている。 登場人物は以下 飛田→飛田 雅宏さん 泣く子も黙る桃太郎伝説や桃太郎電鉄のプログラマ。X68KのAS/LKとかファミコン&PCエンジン&SFC用のAS/LKとか、SDとかivとか、ジャン狂とか、その他いろいろの作者。野沢→野沢 勝広さん 泣く子も黙るスターソルジャーの作者…として多分一番有名。実はチャレンジャーの横スクロー

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    dekaino 2019/03/23
  • PCエンジン時代の圧縮技術::Colorful Pieces of Game

    1988年に初めてプロとしてハドソンでゲームを作れることになったとき、ハドソンではゲームを作るときデータ圧縮をするのが当たり前だった。 テキスト、グラフィック、マップ…ともかく圧縮できるものは全て圧縮するのが当たり前だった。 で「ウチは圧縮するのが当たり前になっているから、他よりゲーム規模が大きく出来てお得感があると思うんだよね」と(少々自慢気に)飛田さんが話していた。 確かにファミコン最初期の『ロードランナー』からして、普通に作ったのでは絶対に入らないはず(APPLEIIのディスク前提のゲーム、つまり128KBあるはずのものを16KBに移植している)なので、入れるためにはデータ圧縮になるよなあと思う。 だから、そこらへんの移植の経験から圧縮するようになったのだろうと想像していたのだけど、どうしてコレを始めたのかについての当の理由がわからなくて、facebookでそこらへんを始めた頭目っ

    PCエンジン時代の圧縮技術::Colorful Pieces of Game
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    dekaino 2017/01/15
  • 1978年の"gosub hudson"::Colorful Pieces of Game

    最近、知り合いから古いチラシなどをまとめてスキャンしたものをもらい、非常に資料性が高い内容なので、時間を見て、いろいろ紹介していきたい。 まず今回は個人的に一番資料性が高かった"gosub hudson"について。 "gosub hudson"は、1978年の多分初春~夏前ぐらいに配布された冊子だと思われる。 手元には8ページあるのだけど、これで全部かはわからない(多分全部だけど)。 これはハドソンがCQハドソン、つまりアマチュア無線を中心としたショップだった時代にマイコンショップを格的にオープンした時に作られた冊子だ。 このハドソンのマイコンショップCOSMOS SAPPOROは当時平岸にあったCQハドソンの2階にあり、PET-2001、APPLE II、TK-80BS、LKIT-16といった、当時のメジャーどころのコンピュータを取り扱っていた(と資料からは読み取れる)。 このあと数年

    1978年の"gosub hudson"::Colorful Pieces of Game
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    dekaino 2015/09/20
    これは懐かしい! ちなみにJA8スケは8エリア(北海道)のハム局に新規発給されるコールサインのプリフィックスが変わるたびに名前が更新されていた。この頃はJH8スケかJE8スケだったと思う。
  • リリアは誰が創りだしたのか?::Colorful Pieces of Game

    僕の書いたイース1・2を作った時の話には大きく欠けているところがある。 それはもちろん言うまでもなく、オリジナルのイース1およびイース2が作られたとき、誰がゲームにどんな風に貢献したかで、そしてイース3が実はどうだったのか? のあたりだ。 当たり前だが、イース1・2はあくまで移植で、山根がいるとかオリジナルメンバーから話を聞いているとは言っても「どんな風に開発が始まったのか?」とか、誰がどんな貢献をしたのか、については別の会社の話であり、わからなかったわけだが、これがなんと26年ぶりのイース1・2のメンバー+当時のファルコムに勤めていた人間との飲み会で、かなり詳しく分かった。 まあ26年以上経ってからの話で、例えば山根は「俺はゴーなんて言ってなかった」と主張して、飲み会メンバー全員から「忘れてるのかよ」と思い切りツッコミをらったり、さらに自分が飛行機のアナウンス無視した話とか忘れてたりと

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    dekaino 2015/04/15
    Missリリア 杉本理恵の話も聞きたいなー
  • ファミコン版FFⅡのアルテマはなぜ弱かったのか?::Colorful Pieces of Game

    Twitterでメモ書きした話をもう少しちゃんと残しておこうと思った。 ただの記憶でしかなく、細かいところに間違いがある可能性は十分にあるが、大枠は間違っていないはず。 25年前(1989年の初頭だったはず)、僕は自分のデビュー作、さいきょーRPG『凄ノ王伝説』の宣伝で、マル勝ファミコンの座談会に出してもらえることになった。この座談会は1988年冬~1989年初頭のゲーム業界で、言うまでもなく1988年2月に出た『ドラゴンクエストⅢ』で空前のRPGブームが来ていた、まさにRPGの全盛時代といっていいタイミングで行われていた。 僕自身はというとPCエンジン版の『イースⅠ・Ⅱ』の制作に入る前で、さくまセンセイのところでどんちゃんに叩きのめされる前だったと思う。 自分のゲームに対する考え方とアプローチは『イースⅠ・Ⅱ』の制作に入るまでの2ヶ月ほどで激変するのだけど、こんときはまだゲームを作るプロ

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    dekaino 2014/10/03
  • スーパーグラフィックス版大魔界村のコト::Colorful Pieces of Game

    USTで乱暴に喋ったことをちょっとまとめておこうと思ったので書いておく。 スーパーグラフィックスの大魔界村は、発売はNECアベニューだったが、移植はハドソンで行われていて、そして実際に移植したのはアルファシステムのメンバーだった。 プログラマは二人。一応Y君とS君と呼んでおく。20年経っても名前を出していいかは判断しかねるので。ちなみにアートは、あにやんと呼ばれていたヤツが頭でやっているのだけど、彼とは『凄ノ王伝説』で仕事してたりする。 記憶ではY君は『NO・RI・KO』を佐々木社長とやっていたはず(『ファイティングストリート』もやってたかは覚えてない)。それで『イース1・2』を作るとき、横でずっと『大魔界村』の移植をしてて、そのあと『天外2』のとき一緒に仕事した。コードの最初から『天外2』にいて、最後までいた。 S君は『大魔界村』のあと、アルファシステムに帰って何作かシューティングゲーム

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    dekaino 2013/06/05
    昔のゲームタイトルには、手間暇かけて作り込んだモノがあったよね
  • 8ビット時代のグラフィックについて::Colorful Pieces of Game

    twitterで、X1やSMC-777などのVRAMがI/Oポートの先にある設計をおかしいハードだと書かれていたので「あー、今の目で見るとわからんか」と思うと同時に、それがゼンゼンおかしいどころでなく、とてもリーズナブルな設計の一つであったのだ、という話をここに書いておこうと、突然思ったので書く。 まず、当時のパソコンでとても主流だったグラフィックスを解説すると640x200。 RGB1ビットずつのデジタル8色。縦横8で割るとわかるが80x25。つまり当時のキャラクタ画面のドットに1:1対応するグラフィクスだ。 これRGB、それぞれのプレーンのサイズをKBで表すと16KB。 今から見ればカスのようなサイズだけど、アドレスバスが16ビットしかない8ビットマシンでは大問題になる。 アドレスバスが16ビットってことは、64KBが直接アクセス可能なメモリ量ってことになる。ここに16KB*3のプレー

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    dekaino 2013/03/28
  • ハドソンがファミコンに参入したとき(オリジナル)::Colorful Pieces of Game

    Re:ゼロから始める ゲームシナリオ ライトニング伝説 さよならハドソン ドラクエとFFと ToHeart 誰得ゲームライフ ときめきメモリアル の時代 イースI・II製作メモ ■頒布ページ■

    dekaino
    dekaino 2012/01/22
    V30の8080モードを使ってMSDOSのファイルシステム上でCP/Mアプリを動かすのは当時のCP/Mベース開発の常識テクだったね。MSDOSのファイルシステムがいい具合にCP/M上位互換だったので楽だった。当時はEOF付ける場合多かったし
  • パソコン黎明期・中間色ペイント発見物語::Colorful Pieces of Game

    この8色は固定の原色でカラーパレットもなく中間色もない。だからごくごく初期のアドベンチャゲームでは人は黄色で塗られていたし、キャラクタも全て原色で書かれていた。これに革命を起こしたのがタイルによる中間色表現だ。 インターネットを探しても、貧乏人のためのCG講座ぐらいにしか資料の残っていない古びた知識だが、一定以上の解像度で隣り合った2つの色が人間の目では混ざって見えて中間色に見える、結果最大デジタル8色でも、組み合わせで8x7=56色の中間色が表現できる! というのがタイルもしくはクロマキーの基的な考え方だ。マンガのスクリーントーンのような考え方だ、と書けば、分かる人が少しは増えるかも知れない。 左のパターンが典型的な例。貼ったタイルパターンがなぜやや暗い緑がかった黄色に見えるのかを説明すると、これは2ドットのタイルで赤・緑で表現されている。赤+緑は黄色だが、2ドットなので(2倍の広さで

    dekaino
    dekaino 2011/01/09
    同年11月発売のPC8801のN88BASICのPAINT命令はタイル機能付だったから、タイリングによる中間色表現は当時すでに公知だったろう。つーか本件技術がタイルって呼ばれたのはN88BASICからの移入と思われる。
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