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2008年12月21日のブックマーク (7件)

  • キミたちはセンス競争から抜け出せていない。

    思うところがあったので書いておく。 「聖☆おにいさん」を面白いって言いたくない相沢が選ぶマンガアワード2008 http://d.hatena.ne.jp/osamu-teduka/20081219#1229640209 「聖☆おにいさん」が面白くない、と言うつもりは全くないし、実際にモーニングツーが家にあったら飛ばさず読んでくすっと笑うが、それでもやはり「『聖☆おにいさん』って面白いよね」とは言いたくないのだった。「聖☆おにいさん」が嫌いだというわけではなく、だから作者にもマンガにも罪はないが、「聖☆おにいさん」をとりまく空気が嫌いだ。それは「聖☆おにいさん」がものすごく売れているっていう事実とか、「聖☆おにいさん」を好きだって言いそうな人の顔とか、そういうのを全てひっくるめて「『聖☆おにいさん』が面白いマンガとされている空気」がものすごく嫌だ。 漫画でセンス競争はしたくない。 http

    キミたちはセンス競争から抜け出せていない。
    delayedresolve
    delayedresolve 2008/12/21
    何かを好きだと表明する事で自分にはセンスがあるとアピールする人→センス競争は不毛だ参加したくない作品を素直に楽しもう→センス競争をする人達を超越してるピュアな自分って凄いと自己陶酔してるだけ→…
  • 「おせっかいな人」の孤独 - 内田樹の研究室

    鹿児島に行った話を書き忘れていた。 鹿児島大学におつとめの旧友ヤナガワ先生に呼ばれて、鹿児島大学が採択された教育GPの一環として、キャリア教育について一席おうかがいしたのである。 キャリア教育については、もし「労働のモチベーション」をほんとうに上げようと望むなら、「自己利益の追求」という動機を強化しても得るところはない、と私は考えている。 その話をする。 これについては、『潮』と『新潮45』の近刊にも書いているので、繰り返しになるが、私はこう考えている。 「仕事」には「私の仕事」と「あなたの仕事」のほかに「誰の仕事でもない仕事」というものがある。そして、「誰の仕事でもない仕事は私の仕事である」という考え方をする人のことを「働くモチベーションがある人」と呼ぶのである。 道ばたに空き缶が落ちている。 誰が捨てたかしらないけれど、これを拾って、自前のゴミ袋に入れて、「缶・びんのゴミの日」に出すの

    delayedresolve
    delayedresolve 2008/12/21
    『誰のものでもない仕事を"オレがそれやっとくわ"というふうに片付けてしまうおせっかいを彼らは快く思わない/私の様な人間ばかりだと社会はどれほど制度設計が碌でもない物であっても結構住み易くなってしまう』
  • 今朝、祖母が亡くなったんだけど、葬式がめんどくさくて仕方がないの

    私の家系は無宗教なのに、亡くなった時は真言宗にいつもお経なりを世話してもらってます。しかし、私としては、2日以上も葬式などに時間を奪われる価値はないと思っていますし、この日文化の意味も全くもって分かりません。しかも、これが終わっても、法事地獄がまってんだぜ!全くこの仕組みが分からん。 父や母は、先祖代々からやってるから、親戚、周りの目があるので常識的にするしかないのよって 言ってます。 誰が考えたんだろう、こんなメンドクサイシステム。お寺さんか? 昔なら分かるぜ、田舎のほうとかさぁ、でも、この昨今ではこんなメンドクサイシステムする必要ありますか?もっとシンプルに1時間くらいで済ませてくれよと思うのは私だけですか?それとも異常ですか? しかも、母はお布施をいくら包めば分からないこともあり、葬儀屋さんに相場の額を聞いていました。葬儀屋さんいわくお寺さん一人に対して、25から30万円くらいのお

    今朝、祖母が亡くなったんだけど、葬式がめんどくさくて仕方がないの
    delayedresolve
    delayedresolve 2008/12/21
    葬式必要派の圧倒的多さに驚くともに少し耳を傾けてみる必要があるのかもとちょっとだけ思った。
  • 他人の成功体験が役に立たない理由|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    実体験を伴うアドバイスも伴わないそれも、さして役に立たない点では五十歩百歩である。 確かに、成功体験は「ノウハウ」を生む。けれども、実のところ「使えるノウハウ」は枝葉でしかない。そして、その「使えるノウハウ」はまったく成功の十分条件ではないし、そもそも必要条件ですらない可能性もある。たとえばそれはIT長者が勧める読書法であったり、ダイエット成功者の事制限法であったり、東大合格者の有効な時間利用法であったり、ビジネスエリートの情報整理法であったりする。こうした成功法のミソは、「自分にもできそう」なことろにある。そして、成功者の体験の一部をトレスさせることで、成功を掴めるかもしれないと勘違いさせるのである。 何故勘違いかといえば、成功の理由も失敗の理由も所詮は後付けにすぎないからだ。効率的な読書体験が機を得て役に立ち、成功の端緒を掴む。それまで続けていた努力や蓄積した能力が、その端緒を次に繋

    delayedresolve
    delayedresolve 2008/12/21
    『結局のところ、この種の提言の本質はメンタル面の後押しにある。否、そこにしかない。』
  • 2008-12-20

    ■今朝、祖母が亡くなったんだけど、葬式がめんどくさくて仕方がないの(増田) 私の家系は無宗教なのに、亡くなった時は真言宗にいつもお経なりを世話してもらってます。しかし、私としては、2日以上も葬式などに時間を奪われる価値はないと思っていますし、この日文化の意味も全くもって分かりません。しかも、これが終わっても、法事地獄がまってんだぜ!全くこの仕組みが分からん。 … 誰が考えたんだろう、こんなメンドクサイシステム。お寺さんか? 昔なら分かるぜ、田舎のほうとかさぁ、でも、この昨今ではこんなメンドクサイシステムする必要ありますか?もっとシンプルに1時間くらいで済ませてくれよと思うのは私だけですか?それとも異常ですか? いえたぶん異常ではないですよ。霊魂は無い、死ねば全部そこでお終い、という考え方に立つ人がほとんどになればそれは当たり前の考え方の一つ(他の形も考えられる)になることでしょう。 ただ

    2008-12-20
    delayedresolve
    delayedresolve 2008/12/21
    『死んだからといって即座にメンバーから外して(社会的意味はないものと見なして)さっさと片付けてしまう社会よりは今の方が好ましい/世間体があるからとか親戚づきあいがあるからといったレベルの話では到底ない』
  • チェーン店が個人店よりも糞な理由 - 鍵大工学部

    よく行く居酒屋リストを見直しました。みなさんもそうなさったほうがいいですよ。 - 鰤端末鉄野菜 Brittys Wakeチェーン系の居酒屋というのはとにかく酷いところが多い。同じ価格帯の個人経営のところと比べても酷い。どうしてだろう? サービスを受ける側から見れば、違うのは営業時間くらいに思えるのだけど。ブクマコメントにも書いたように、こういう店で人は人間扱いをされない。従業員だけでなく、客さえも。某モンテ系列の店で学生時代に店長をやっていたという知人が居て、色々と酷い話を聞いた。忘年会シーズンに生中の生産が追いつかなくて、プラスチックの箱の中にビールをサーバから流しっぱなしにして、ジョッキを突っ込んで汲み上げたものをそのまま出したりとか。これ以上は書かないけれど(世の中には知らないほうが幸せなこともある)、居酒屋・ファミレス・その他諸々、チェーン系の店にはこのテの話はわんさかある。もっと

    delayedresolve
    delayedresolve 2008/12/21
    『チェーン系の居酒屋というのはとにかく酷いところが多い。/こういう店で人は人間扱いをされない。従業員だけでなく、客さえも。』
  • なつの とびら & しろい パラソル - やねごんの にっき

    じぶんは どちらかと いうと ナルシストで、かがみを みたりするのが すきなほうである。ひとまえでは はしたないから やらないようにしているが、ひとりで すごす じかんの だいぶぶんは かがみに うつった じぶんの すがたを ながめて、「おー、おとこまえだなあ」などと ためいきを つくなどして あきることが ない。そんなことを していると、いちにちは あっというまに すぎさる。そうしているうちに わたしの 青春は あっというまに すぎさったのである。 ただ、かがみに うつった イケメンな かおが わたしの 客観的な すがたかと いえば、そうとも いえないところが ざんねんではある。かがみの まえで じぶんは じぶんの みたいように かおを つくっている。かがみに うつった じぶんは 「じぶんが みたいと おもっている じぶん」に ほかならないのであって、たにんにも そんなふうに みえている

    なつの とびら & しろい パラソル - やねごんの にっき
    delayedresolve
    delayedresolve 2008/12/21
    『人がやっている事が私にとって奇妙に感じられるとしたらその奇妙さには何か私のよみとれていないいみがあるのかもしれない…と考える様にしている/奇妙だと感じている自分の感じ方の方を疑いそこから距離をとる』