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ブックマーク / diary.lylyco.com (5)

  • 下手な文章というのはあるが、上手い文章というのはない|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    一般的な意味で上手い文章というのは、たぶん、ない。 ・俺なりの「文章うまくなる方法」 - G.A.W. ・「いいなぁ」という文章に近づくために必要なこと - GoTheDistance あるのはただ誰かや何かに合った文章である。似たようなことを少し前にも書いたなと思ったら、偉そうに文章術のようなものを書いていた。若気の至りである。先月のぼくはあまりに若かった。後悔は、それほどしていない。文章を公に晒すというのは、そういうことだと思っている。それはまあいい。上手い文章の話である。タイトルにも書いたけれど、下手な文章というのはあると思う。誤字脱字が酷いとか、誤謬に塗れているとか、人以外には何が書いてあるのか解らないとか、そういったものである。要するに、文章の体をなしていない。それは下手といっていいと思う。 文章として特段の瑕疵がない。言葉遣いは正しく文意も通っている。そういう文章なら、言葉を

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    dhalmel 2009/04/28
    「目指すべきは目的に合った文章か、でなければ「好き」な文章だろう。」
  • ブログ主がわざわざマイルールを表明する理由|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    無責任の謗りを免れないと知りつつ書く。 ・コメント・トラックバックは「原則として削除」というルールを掲げます [絵文録ことのは]2008/06/22 こういうルールの類は、ただ管理者が管理効率を上げるためだけに宣言すべきものだと思う。基をいえば、ルールの明記なんてしなくても管理者は自分のブログを好きに管理して構わない。気に入らないコメントを恣意的に削除しようが、長文コメントを内容如何に関わらず削除しようが勝手にすればいい。そういう態度に対する非難さえ、自分の管理範囲内でなされたものについては軒並みシャットアウトすればいい。ブログ主だけが管理権限を持つ個人ブログで、読者と何ら契約関係にないのであれば、こうした運用方針であっても特に問題があるとは思えない。 考えるべきは、自分が何故ブログを書き、公開しているか、である。たとえばエイス・マンを育て賞賛の声だけを浴びていたい…そういう動機でブログ

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    dhalmel 2008/07/30
  • 人生の勝ち負けを決めるのは誰か?|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    自分の人生を自虐的にまとめるのは簡単だ。 ・勝ち組になれなかったこと この手の物語に自分をあてはめることは、ぼくにだって簡単にできる。今や懐かしさすら覚える「ヒルズ族」なんて言葉で「勝ち組」なるものが象徴されるなら、ぼくの現状などは文句なしの「負け組」である。「勝ち組」「負け組」というのは流行言葉だから、たぶん汎用的な概念ではない。いい換えれば、自分の価値観で勝ち負けを決められる概念ではない、ということだ。自分は非コミュで非モテでヲタニートだけど、エロゲサイトのアフィリエイト収入でなんとかっていけてるし、大好きなアニメに囲まれて生きてるから余裕で勝ち組。…みたいな主張は認められにくい。 リンク先の自分語り風文章は「世間の価値観に流された結果、常に一歩ずつ出遅れた自分」という物語を書きたかっただけなんだろう。限りなくフィクショナルだ。大学のエピソードひとつとっても、世間的にはオシャレ優先リ

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    dhalmel 2008/07/09
  • トラックバック不要論≒零細ブログ不要論|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    こんなちっぽけなブログの書き手でも読まれたいという欲求はある。 ・【このブログがすごい!】BLOG:トラックバックはなぜ流行らなかったのか ・404 Blog Not Found:TBを見直せ、いや打ち直せ ひとつめのリンク先に書いてあることは、たぶん、ある程度以上安定的にアクセスのある大手サイト運営者の実感なんだと思う。「ブログをやっていくと、読むブログもわりと限定されてくる。すると、そこにはなんとなくコミュニティができてくる。」とか「自分のブログを管理していると、突然アクセスが増えたりすると、そのリンク先を自分の管理ページで見ることができる。」とかいうのは、始めたばかりの零細ブログにはあまり当てはまらない。大手が零細に言及したならそりゃあそこからの流入は激しいだろう。けれども、逆の場合はたぶん気付かれもしない。 アルファブロガーだとかいわれるような人たちのブログは、確かに比較的ハズレが

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    dhalmel 2008/06/24
  • ブログが何の役に立っているかは誰にも分からない|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    川田亜子アナウンサーの自殺とは直接には関係のない話である。 ・結局blogなんて、クソの役にも立たなかったわけだ。 この結論を導き出すには、ふたつの前提がいる。ひとつめは、川田アナは個人的な何かを個人的な誰かに届けたくてブログを書いていたという前提。次に、個人的な何かを個人的な誰かに届けられるのがメディアの存在意義であるという前提。さて、この前提にはどの程度の信憑性、或いは一般性があるんだろう。ぼくに確信できるほどの材料はない。ただ、これはかなり恣意的な前提なんじゃないかとは思う。ひとつめの前提については川田アナの意を確認できない以上、肯定も否定もできない。ただ、ふたつめのそれはあまり一般的な考え方ではないように思う。 マスに開かれたメディアを何に使おうと使う人間の勝手ではある。使えるものは何にでも使えばいい。脚化がテレビドラマを利用して密かに恋人にプロポーズするようなことがあっても、

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    dhalmel 2008/05/27
    「公開されたブログが無駄かどうかは、もうブログの書き手にも決められないのである」
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