成朝は、なぜか食堂本尊の造像に専念せず、文治元年(1185年)に源頼朝の勝長寿院本尊阿弥陀如来像を造るため鎌倉に下向した(『吾妻鏡』)[6]。一方、運慶は文治2年(1186年)正月の時点で興福寺西金堂本尊釈迦如来像の造像に携わっていたが(『類聚世要抄』)[7]、その直後、成朝の動向に連続するかのように、鎌倉幕府関係の仕事を開始する。その年5月3日には、北条時政発願の静岡県伊豆の国市・願成就院の阿弥陀如来像、不動明王及び二童子像、毘沙門天像を造り始めている(阿弥陀如来像を除く各像像内に納入の五輪塔形銘札)。またその3年後、文治5年(1189年)には、和田義盛発願の神奈川県横須賀市・浄楽寺の阿弥陀三尊像、不動明王像、毘沙門天像を造っている(不動明王・毘沙門天像像内納入の月輪形銘札)[8]。 治承4年(1180年)の南都焼討で主要伽藍を焼失した東大寺復興造仏には、康慶を中心とする奈良仏師が携わっ
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