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前回の記事で飢饉について述べたので、今回も引き続き飢饉について語ります。 1.はじめに 飢饉とは食料不足ですから、当然ながら天候不順や農作物の病気・害虫による食糧生産量の減少が原因となるはずです。ところが、日本のみならず世界の歴史を見渡してみると、必ずしもそうとは言えません。飢饉と食料生産量の不足が一致するとは限らないのです。 ここで、現在の食料事情についてちょっと簡単な計算をしてみましょう。数値の出典は国連食糧農業機関(FAO)です。2011年度の主要な作物の生産量は以下の通りです。100万t以下の位は切り捨てました。 穀物 とうもろこし:8億8千万t、米:7億2千万t、小麦:7億t、大麦:1億3千万t、ソルガム(もろこし・高粱):5000万t いも類:じゃがいも:3億7千万t、キャッサバ:2億5000万t、さつまいも:1億t、ヤムいも:5600万t その他 大豆:2億6千万t、バナナ:
安土桃山時代末の1597年、日本人が「奴隷」としてメキシコに渡っていたことがわかった。 ポルトガル人で同国立エヴォラ大特別研究員ルシオ・デ・ソウザさん(大航海時代史)と、東大史料編纂(へんさん)所の岡美穂子助教(日欧交渉史)がメキシコ国立文書館に残る異端審問記録で確認した。「日本人奴隷」の実態を示す貴重な資料であり、日本人の太平洋渡航を詳細に記した最初の資料としても注目される。研究成果は近く海外で出版される予定。 審問記録には、日本名の記載はないが、名前の後ろに「ハポン(日本)」と明記された、「日本生まれ」の人物の名があった。「ガスパール・フェルナンデス」「ミゲル」「ベントゥーラ」の3人で、いずれも男性とみられる。 ガスパールは豊後(大分県)生まれ。8歳だった1585年、長崎で日本人商人からポルトガル商人のペレスに、奴隷として3年契約7ペソで売られた。その後の詳細は不明だが、引き続きペレス
金大中元大統領の記念図書館でスピーチし、終了後に記念品を手にするアウン・サン・スー・チー氏=1日、ソウル(AP) 聯合ニュースによると、韓国訪問中のミャンマーの最大野党国民民主連盟(NLD)党首、アウン・サン・スー・チー氏は1日、太平洋戦争をめぐる日本の歴史問題に絡み「過ちは誰でもあるが、過ちを認めることをためらうことこそが本当の過ちだ」と述べ、日本の姿勢を批判した。 ソウルで面会した宋永吉・仁川市長が「ドイツと違い日本は従軍慰安婦問題などを認めない。関心を持ってほしい」と述べたのに応じた。 スー・チー氏はまた、ミャンマー独立の英雄、父アウン・サン将軍が生前「日本人の個人を憎んではいけない。誰でも長所と短所があるから短所を理由に憎むのはだめだ」と話していたとも述べた。アウン・サン将軍は第2次大戦中に旧日本軍の軍事訓練を受けたが、後に独立のため日本軍と戦った。(共同)
福岡市の古墳でおととし見つかった、国内で暦が使われた例として最も古い年号などの文字を刻んだ刀は、刻んだ部分に純度の高い金を埋め込む「金象眼」と呼ばれる技法が用いられていたことが分かり、専門家は、刀の歴史的な重要性を高めるものだとしています。 この刀は、おととし、福岡市西区にある元岡古墳群の石室の中から見つかった長さ75センチの鉄製の刀で、背の部分に西暦570年に当たる年号や日付が刻まれていたことから、国内で暦が使われていたことを示す最古の例として注目されました。 この刀について、福岡市埋蔵文化財センターが周囲を覆っていたさびを取り除く作業を進めたところ、刻まれた文字に金を埋め込む「金象眼」と呼ばれる技法が使われていたことが新たに分かりました。 さらに、金の含有率を分析したところ、純度が98%と極めて高いことも分かりました。 古墳から見つかった「金象眼」の刀や剣は国内ではこれまで2例しかなく
フランスで開かれた日本美術展に展示された、笑っているように見える埴輪が、出土した埼玉県本庄市で特別展示されています。 特別展示されているのは高さ1メートル余りの3体の埴輪で、いずれも顔に刻まれた目や口が丸や三日月形で、笑った表情に見えることから、「笑う埴輪」と呼ばれています。 平成10年、本庄市の6世紀後半の古墳時代に作られたとみられる「前の山古墳」から出土し、本庄市の歴史民俗資料館に展示されていました。 3体は笑った表情に見える埴輪としては大型で珍しいことから、去年10月から12月までフランスで開かれた日本美術展で展示されました。 本庄市は、フランスでお披露目された埴輪が戻ってきたことを受けて、市役所で埴輪を特別展示し、笑う埴輪をモデルにしたキャラクターを生かして地域おこしをしていきたいとしています。 本庄市教育委員会文化財保護課の鈴木徳雄副参事は、「笑う埴輪を大勢の人に知ってもらい、本
メディア批評 岩波新書「日本社会の歴史」(上、中、下) 著者 網野善彦氏に聞く 「日本史」の常識を覆す 岩波新書「日本社会の歴史」(上・中・下)が昨年末に完結した。発売以来、3巻ともベストセラー入りするほど売れ行きは好調だ。著者は歴史学者の網野善彦さん。ここではこれまで常識として考えられていた「日本史」=日本列島に生活してきた人類を最初から日本人の祖先ととらえ、そこから「日本」の歴史を説き起してきた誤った歴史観=を覆す様々な視点が提示されている。網野さんは、いわば「はじめに日本人ありき」ともいうべき思い込みが、現代日本人の歴史像を大変にあいまいなものにし、自身の自己認識を、非常に不鮮明なものにしている、としながら日本列島と朝鮮半島の歴史的関わりについて語ってくれた。(粉) ――これまでの「日本史」は、日本列島に生活してきた人類を最初から日本人の祖先ととらえ、そこから「日本」の歴史
印刷 上の方に「日本」の文字が見える。「最古の日本」の可能性が高い=「社会科学戦線」7月号、王連竜氏の論文「百済人祢軍墓誌考論」から 中国の古都・西安で見つかった墓誌(故人の事績を刻んで墓に収めた石板)に、「日本」との文字があることを紹介する論文が中国で発表された。墓誌は678年の作と考えられるとしている。日本と名乗るようになったのはいつからなのかは古代史の大きななぞ。大宝律令(701年)からとの見方が有力だったが、墓誌が本物ならさらにさかのぼることになる。 中国の墓誌を研究する明治大の気賀沢保規教授(中国史)によると、論文は吉林大古籍研究所の王連竜氏が学術雑誌「社会科学戦線」7月号に発表した。祢軍(でいぐん)という百済(くだら)人の軍人の墓誌で1辺59センチの正方形。884文字あり、678年2月に死亡し、同年10月に葬られたと記されている。 百済を救うために日本は朝鮮半島に出兵した
原子炉を動力源とする船は軍艦を除くと数少なく、ソ連の原子力砕氷船「レーニン」、アメリカの貨客船「サバンナ」、西ドイツの鉱石運搬船「オットー・ハーン」に続く世界でも4番目の船である。名称は一般公募から選ばれたもので、進水時の母港・大湊港のある青森県むつ市にちなむ。 1963年(昭和38年)に観測船として建造計画が決まり、同年8月に「日本原子力船開発事業団」が設立された[5]。1968年(昭和43年)に着工して翌1969年(昭和44年)6月12日に進水した。進水式には皇太子夫妻が出席し、美智子妃が支綱を切り、佐藤栄作首相らが拍手で送った[4]。「原子力船進水記念」の記念切手が発行される[6]など、当初の期待・歓迎は大きかった。 1972年(昭和47年)の9月6日にかけて、原子炉へ核燃料が装荷された。1974年(昭和49年)に出力上昇試験が太平洋上で開始され、8月28日に初めて臨界に達した[5]
高知市出身の自由民権運動の指導者・板垣退助のルイ・ヴィトン社製トランクなど遺品41点が、東京都内在住の子孫から同市立自由民権記念館に寄託され、16日、報道関係者に公開された。 表部分に「ITAGAKI」と書かれ、トランク内には製造番号の入った紙タグが残っている。外遊中のパリで購入したとされ、日本に残るヴィトン社製品の中でも最古に近いという。遺品は来月から同記念館で展示される。「板垣死すとも自由は死せず」と未来を見据えた名言を吐いた闘士は、おしゃれ心も時代を超えていた?【倉沢仁志】
◇小西聖子(たかこ) (新潮社・1890円) ◇根こそぎ動員された医師たちの戦場 以前は、大学でも、地域の診療所でも、軍医出身だという医師に時々出会ったものである。今や、軍医で従軍した経験のある日本人は、生きていたらどんなに若くても九十歳前後。現場で会うことも特殊な例外を除いてはもうなさそうだ。 本書には、十五人の軍医の体験がまとめられている。一人称の語りの体裁だが、聞き書きではない。著者が、十五人の体験に関する本人の書き残した資料、関係者の資料を集め、再構成している。 「日本医事新報」に書かれた回顧録や、九大医学部の同窓誌「学士鍋」の記事が最も多いが、その他の雑誌や新聞からの引用資料も含めて、巻末に九ページにもわたって文献表がある。「東京大空襲に想(おも)う」「卒業後戦地や外地に征(い)った級友たちなど」「満洲好日」等の、それほど長くはない文章の題が並んでいる。軍医を経験した医師たちが書
1880年代といえばまだほとんどの西洋人は日本に自由に入国することができなかった時代ですが、明治時代初期の1873年に来日したイタリア人アドルフォ・ファルサーリは横浜に写真スタジオを開き、在留外国人と外国人旅行者に土産として販売するために数多くの写真を撮影しました。 熟練の職人によって1枚ずつ手作業で彩色された写真は幻想的な雰囲気を帯び、当時は生まれてもいなかった現代の日本人が見ても不思議とノスタルジーを感じるものとなっています。 詳細は以下から。Adolfo Farsari – The Man Who Shot Old Japan | Quazen 写真は当時の日本人にとっては非常に高価だったため購入者のほとんどは外国人で、観光客にアピールするような主題が選ばれています。 Image Credit ファルサーリも自分の写真を芸術としてではなくビジネスととらえていたようで、撮影された人々の
印刷 松尾大社で見つかった17体の神像=23日午前、京都市西京区、高橋一徳撮影 京都市西京区の松尾大社は23日、神社内に保管されていた神像17体を初めて公開した。このうち、女神像2体には平安時代後期(12世紀)の制作と記された銘文が墨書されており、銘文が残る神像としては日本で最も古いものになるという。 調査にあたった伊東史朗・和歌山県立博物館長によると、女神像の一つは、胸の前で手を合わせた木製の座像(高さ33.6センチ)で、像の底に康治2年(1143年)と墨書され、制作者も記載されていた。別の女神像も同様の座像(高さ29.8センチ)で、底を赤外線で写真撮影すると、同じ内容とみられる墨書があったという。伊東館長は「大変重要な学術的発見だ。重要文化財にも匹敵するのではないか」と評価している。 また、平安後期に制作されたとみられる別の女神像1体、男神像2体は、笑顔の神像としては最古のものと
去年の夏にスポーツ吹き矢(青春、吹き矢甲子園)の取材をさせてもらった大竹学園の大竹先生から、「針供養祭をするので見に来ませんか?」とお誘いがあった。今時高校で針供養をするのは珍しいのだという。 それは見てみたいですな。という事で、西八王子にある大竹学園を訪ねた。初めて見た針供養は、厳粛であり妙であり、意味のある行事だった。 今回は、そんな針供養の模様をご覧下さい。 (text by 松本 圭司) ■針供養とは? 針供養とは、折れた縫い針を供養する行事の事。古くから行われてきた行事で、元は中国から伝わったのだとか。 関東では2月8日に行われる事が多い。供養すべき縫い針を豆腐や蒟蒻にさし、土に埋めるなどして供養する。この日は裁縫の仕事をしないという決まりもある。 かつては東京にも裁縫を教える学校(高等専修学校)が数多くあり、そのどこでも針供養をやっていたそうだが、最近の都内では大竹学園くらいで
2017年06月20日22:00 触れてはいけない日本の歴史のタブーってどういうのがあるの? 過去のおすすめ記事の再掲です 1 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします : 2010/08/16(月) 23:18:52.60 ID:0UVByoc80 明治天皇のクーデター未遂とか? これは有名かな http://ja.wikipedia.org/wiki/二卿事件 二卿事件は、明治4年(1871年)、攘夷派の公卿、愛宕通旭と外山光輔が明治政府の転覆を謀ったクーデター未遂事件。「外山・愛宕事件」とも呼ばれる。 2 : 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします : 2010/08/16(月) 23:20:17.92 ID:DjgZK2EX0 秀吉は本能寺の変を知っていた。 http://www.asyura2.com/08/reki01/msg/192.html 4 : 以下、
■編集元:ガイドライン板「243 名前:水先案名無い人 投稿日:2011/05/21(土) 13:47:41.75 ID:+dvVXJZr0」より 8 名無しさん@涙目です。(沖縄県) :2011/05/21(土) 12:28:21.36 ID:/y080h040 1596年、Jan Huygen Van Linschoten(オランダ)製作 1658年、Jan Jansson(オランダ)製作 1703年、H. Scherer(ドイツ)製作 1727年、Kaempfer, E.(オランダ)製作 1740年、Adrien Reland / Reiner & Josua Ottens(オランダ)製作 1778~1784年、P.Santini / R. de Vaugondy(イタリア)製作 1809年、J. Pinkerton(イギリス)製作 1821年、「大日本沿海輿地全図
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