旧街道を歩くのが趣味の者です。私が知る限りの情報からお答えいたしましょう。 質問者のご指摘通り、律令時代の旧東山道(中仙道の原形と言われている)は、旧落合宿から神坂(みさか)峠を越えて、園原から飯田へ抜けるルートがありました。やはり神坂峠が険しいということと、木曽谷の方が一部藪原峠を除き、比較的険しい峠道もなく、木曽川の渓谷を通れるというルートが確保されていたからでしょう。 旧東山道は、名古屋から飯田に抜ける、飯田街道、岡崎から北上してくる中馬街道、吉田宿(現豊橋)から北上してくる別所街道と合流し、伊那街道(三河側の呼称で、信濃側からは三州街道と呼ばれている)として、塩尻で合流していました。 中山道は、洪水に悩まされる「東海道」のバックアップ機能が要求されており、多少遠回りになるけれども、日程が計算できるという理由で通行者が多かったそうです。ですので、少しでも楽なルートが求めれらていたのだ
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