これは歴史的に証明されている事実です。 佐々成政一行は予想以上の危険と苦難の連続で、激しい疲労のため幻覚幻影にも襲われた。四百年前の平家残党の豪傑・悪七兵衛景清らが現れたという。激烈な雪崩が山谷を震動させて一行を脅かした。犠牲者も出たが、とにかく立山越え、いわゆる"ザラザラ越え"を断行して家康の浜松城に到着した(単なる伝説でなく、家康側の史料「家忠日記」の天正十二年十二月二十五日の項に明記された史実だ)。近年発見された「武功夜話」には、成政一行熊の毛皮で身を包み、四尺の野太刀を帯び、らんらんと目を光らせていたと、一行の荒々しい息遣いが迫るように記述されています。 さて、そのルートであるが、 1584年戦国の武将佐々成政は、芦峅寺の中語(ちゅうご:山岳ガイド)を先導に家臣18人と厳冬の北アルプスを横断した(*1)。現代においてさえ容易に人を寄せ付けない厳冬の北アルプス、この時代のことを考えれ