ほらね。
「ドキュメンタリー=フィクション」論は危なくないか? - HALTANの日記を読んで(そこからちょっと遡って)。 タイトルは「ドキュメンタリー≠ノンフィクションである」という意味において、です。 想田和弘さんは 現実を素材にしながらも、そこに作り手の作為と世界観が入り込むことから、ドキュメンタリー作品は虚と実の間を振り子のごとく微妙に揺れ動く。ドキュメンタリーの在処が、単なる「虚」でも「実」でもなく、「虚と実の間」であることがミソである。その危ういバランスがいかにも怪しく、人を惹き付ける。そのことを忘れ、「虚」か「実」のどちらか一方に振り子が振り切ってしまった瞬間に、ドキュメンタリーは根本から崩壊しかねない。それに極めて自覚的になりながら、僕はドキュメンタリーを撮り続けていきたいと思う。ドキュメンタリーは「虚と実の間」であるとしている。 対して森達也さんは 表現とは、そもそもが嘘の要素が混
自分は映画・TVのドキュメンタリー・教養番組・報道全般についてこう書いたことがあります。報道やTV番組全般もそうですが、ドキュメンタリーの事実性(客観性)と演出性はどこでバランスされるべきなのか? についての正解はないのが現実だと思います。例えば演出やプロパガンダでも作品的に面白ければよいとは言えるわけですし、ドキュメンタリー・文化映画史上の「名作」も多くは仕込み・台本や何らかのスポンサード作品だったりはしたわけです。ただ自分が「危ないな」と感じるのは、世間の「ドキュメンタリー=事実の記録」という通説やNHK的な抑圧への反感故か、ドキュメンタリー系の監督(ディレクター)が余りに安易に「ドキュメンタリーも主観であり演出である」としてしまうことなんですね。そりゃ貴方のような志の高い人は最低限の事実性を踏まえつつ「演出」で面白いものを作れる自信があったり、多少はフェイクや台本があっても面白ければ
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