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ブックマーク / www.y-history.net (12)

  • ノルマンディー上陸作戦

  • ソ連のアフガニスタン侵攻/アフガニスタン撤退

    ソ連のアフガニスタン侵攻 1979年、ソ連のブレジネフ政権が、親ソ政権を支援し、イスラーム原理主義ゲリラを抑えるために侵攻した。反発した西側諸国の多くはモスクワ=オリンピックをボイコットした。経済の停滞するソ連でも大きな問題となり、ソ連崩壊の一因となった。 1979年12月、ソ連のブレジネフ政権が社会主義を掲げる親ソ派政権を支援するためにアフガニスタンにソ連軍を侵攻させたこと。ソ連軍に対しイスラーム原理主義系のゲリラ組織は激しく抵抗、ソ連軍の駐留は10年に及んで泥沼化し、失敗した。 ソ連のアフガニスタン侵攻にアメリカなど西側諸国が反発し、70年代の緊張緩和(デタント)が終わって新冷戦といわれる対立に戻った。これを機にソ連の権威が大きく揺らいで、ソ連崩壊の基点となった。 → アフガニスタン撤退 侵攻の理由 当時はその理由は明確にはされず、諸説あったが、現在では次の2点とされる。 共産政権の維

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    facebooook 2023/11/23
    現地で医療活動を続けていた中村哲医師は、200万人もの死者と多数の難民を出したこの状況は「あまりに遠い日本には、ついにこの状況は伝えられることがなかった。ベトナム反戦でわいた日本の平和勢力も無関心だった」
  • 九十五ヶ条の論題

    九十五ヶ条の論題 1517年、ルターが発表したローマ教会の贖宥状販売などを批判した公開質問状。大きな反響を呼び、宗教改革の始まりとなった。 ドイツ宗教改革の始まりを告げることとなった文書である。当時、ローマ教皇レオ10世から贖宥状販売のためにドイツに派遣されたドミニコ修道会の説教師テッツェルは、「お金が箱の中に投げ入れられてチリンと音がするとともに魂が救われる」と説いて、人びとに贖宥状を販売した。そのような露骨な贖宥状の販売に疑問を持ったヴィッテンベルク大学の神学教授ルターが1517年10月31日、ヴィッテンベルク城内の教会の門扉に貼りだしたのが『九十五ヶ条の論題』であった。このような意見の発表は、当時の神学論争ではごく普通のことであった。その日は万霊節の前日にあたり、多くの参詣人が集まっていた。『95カ条の論題』は(当時の教会用語である)ラテン語で書かれていたが、その内容はドイツ語に翻訳

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    facebooook 2023/11/10
    “1517年、ルターが発表したローマ教会の贖宥状販売などを批判した公開質問状。大きな反響を呼び、宗教改革の始まりとなった。”
  • パレスチナ分割案/パレスチナ分割決議

    パレスチナ分割案/パレスチナ分割決議 1947年11月、国連総会で決議されたパレスチナをアラブ人とユダヤ人の居住地にしたがって分割する案。ユダヤ人は受諾してイスラエルを建国したが、アラブ人は不満であったため翌48年、パレスチナ戦争が勃発する。 第一次世界大戦後、イギリスの委任統治とされたパレスチナでは、移住したユダヤ人と先住のパレスチナ人との間の激しい衝突が相次ぎ、時にはイギリスの機関もテロの標的となっていた。このパレスチナ問題に手を焼いたイギリスは第二次世界大戦後、アトリー労働党内閣はついにパレスチナ放棄を決意し、成立したばかりの国際連合に「丸投げ」することとした。 国連、ユダヤ人とパレスチナ人の二国家建国を勧告 国際連合はパレスチナ問題の解決をめざし、勧告案を作成、1947年11月29日の総会にかけた。国連勧告案は、パレスチナを分割して、ユダヤ人とパレスチナ人の二つの国家を建設し、聖地

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    facebooook 2023/10/29
    1947年11月、国連総会で決議されたパレスチナをアラブ人とユダヤ人の居住地にしたがって分割する案
  • ジャガイモ飢饉

    ジャガイモ飢饉 1845年~51年ごろまで、アイルランドでジャガイモ疫病のために起こった飢饉。イギリスに併合されていたアイルランドでの糧危機のため1845年から数年のあいだに100万人~150万人が死亡、さらに多くの人がアメリカ移住してアイルランド人口が急減した。背景にはジャガイモへの過度な依存、イギリス政府の自由放任主義による無策があった。 1845年9月から始まった、アイルランドでのジャガイモの不作による大飢饉。糧不足は49年ごろまで続く、アイルランドはそのために貧困化が進み、多くの人がアメリカなどへの移民として移住したために急激な人口減少が起こった。また、当時イギリスに併合されていたアイルランドでのイギリスからの分離独立運動が激しくなり、1848年には青年アイルランド党の蜂起などが起こったが、運動は鎮圧された。 → 19世紀のアイルランド問題 (引用)1845年の夏、アイルラン

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    facebooook 2023/08/07
    「An Gorta Mór (アン・ゴルタ・モー)」
  • 移民(アメリカ)

    移民(アメリカアメリカ大陸への移民は、17世紀のイギリスなど西ヨーロッパから始まり、合衆国建国後も続いた。黒人奴隷制度が廃止になってからは中国からの移民が増加し、19世紀末からは新移民と言われる東欧・南欧からの移民が増加するなど、時期的な変化が見られる。また旧移民の側から、新しい移民の流入を制限する要求も強く、たびたび移民制限政策が採られるようになった。 世界史上の民族移動の一つの形態である移民(移民として外国に出て行くのが emigration 、外国から入ってくるのが immigration )は、さまざまな事例を見ることができるが、特に大規模な移民の受け入れが行われたのがアメリカ合衆国であった。17世紀以降のイギリスからのアメリカ新大陸への人びとの移住による13植民地の成立に始まり、移民はアメリカ合衆国独立、南北戦争、二度の世界大戦という激動の中でアメリカという国家をつくりあげる

  • 大陸横断鉄道

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    facebooook 2023/06/19
    「大陸横断鉄道の東半分はアイルランド系移民、西半分は中国人により作られた」
  • 苦力/クーリー

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    facebooook 2023/06/19
    1833年に英が奴隷貿易を禁止しために、19世紀後半には黒人奴隷労働に依存できなくなった。清朝は1842年南京条約で開国させられ、アロー戦争後の北京条約で海外渡航が認められて以来、中国人労働者が安価な契約労働者
  • チェチェン紛争

  • ドレフュス事件

    ドレフュス事件 フランス第三共和政下での反ユダヤ主義による陰謀事件。1894年、ユダヤ系軍人がドイツのスパイとして告発されたが、無罪を主張。裁判で背後の軍部・教会の反ユダヤ主義が批判され、結局1906年に無罪となった。それによってフランスは共和政体と基的人権、民主主義が守られた。 1894年10月、第三共和政のフランスで、ユダヤ系のドレフュス大尉がドイツのスパイの嫌疑をかけられ、人は無罪を訴えたが、軍法会議で有罪となり、無期流刑となった。この裁判をめぐってフランスは国論が二分され、判決にユダヤ人に対する差別があるとして再審を求める共和派と、判決を支持する軍部・教会などの王党派が激しく議論を戦わした。中でも作家エミール=ゾラが1898年に『私は弾劾する』を発表してドレフュスを弁護した。ようやく1899年に再審となったが、再び有罪を宣告され、大統領特赦で出獄した。結局、1906年、ドレフュ

  • アメリカのアフガニスタン侵攻/アフガニスタン戦争

  • 南部諸州の復帰/再建期

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