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ブックマーク / azumy.hatenablog.com (7)

  • 自分が中年女になって気がついた - 深く考えないで捨てるように書く、また

    子どものころ、若かったころ、自分の目に映る母の姿は、なんとも保守的に見えた。 私はを読むのが大好きだったし、父はよくを読んでいたけど、母はほとんど読まなかった。読むのは、婦人雑誌や料理レシピくらい。それも、自分が思春期になるころにはほとんど読まなかった。 私には読書を薦めるようなことを言うので、「お母さんは読まないの?」と訊くと、「ちょっと読むともう目がチカチカして、頭痛がしちゃう」といつも答えるのだった。 また、母は私に比べると、漢字やちょっと凝った言い回しをあまり知らなかった。テレビのクイズ番組などを見ながら、「あー全然わかんないー、azumyはよく分かるわねぇ」と言っていた。雑学知識も、私のほうがよく知っていた。 母は生まれてから今に至るまで給料をもらう仕事をしたことがなく、ずっと専業主婦だった。何かにつけ「私は分からないわ」「私はダメだわ」「あなたはすごいわねぇ」と言い、

    自分が中年女になって気がついた - 深く考えないで捨てるように書く、また
  • 人間を直接的に相手にする職業は、基本的に余裕がなければ問題が生ずる - 深く考えないで捨てるように書く、また

    休日午前、夫とタイトルみたいな話をぽそっとした。 まずぱっと思い出すのは、教育現場の崩壊や医療崩壊なんだが、それに限らず、接客業などでも同じ。すごく混雑しているレストランで、注文を間違えられたり、注文したのを忘れられて後の人のメニューが先に出てきたりする(出来上がりの順で前後するのではなく、最初から忘れられている)経験はときにある話で、そういう時フロアを観察していると、大抵、余裕がない。働いている人がいっぱいいっぱいで、単に忙しいというだけでなく、一つ間違えるとそのフォローでさらにかつかつになり、結果また次の間違いを起こす、なんていう悪循環に陥っている。こういう時に、一人でも少し余裕をもって全体を眺められる人がいると、段違いにミスが減る。レストランの場合は通常フロアマネージャーなどがその役をするが、完全に余裕がないと、フロアマネージャーまで給仕に駆り出されていて、他を見ていられないから、こ

    人間を直接的に相手にする職業は、基本的に余裕がなければ問題が生ずる - 深く考えないで捨てるように書く、また
  • 「料理ができる」とは - 深く考えないで捨てるように書く、また

    料理ができないってどういうこと? とりあえず、「料理ができる」とは、各種の材に手を加えて、単品の材とは別のなにかを作り、それが「まずくてとてもべたくない」と思わないレベルである、という感じじゃないだろうか。 ただの蒸かしイモは料理とはいえないが、粉ふきイモなら料理。スライスしたキュウリだけなら料理じゃないけど、他の野菜あるいはドレッシングなどの調味料とあわせてサラダにすれば料理。そんな感じかな。 ところで、こんな実話を、ある身近な女性から聞いたことがある。 その女性が大学時代に交際していた彼氏の話。彼らは当時、それぞれ下宿していて一人暮らしであった。で、その女性は料理はなかなか上手く、彼氏に手料理を作ってあげることもしばしばあった。しかし、その彼氏は自炊が全然できず、もっぱら外・中していたそうな。 見かねた彼女は、彼氏に、一度料理にチャレンジしてみるよう、勧めてみた。とりあえず、

    「料理ができる」とは - 深く考えないで捨てるように書く、また
    fjb1976
    fjb1976 2007/05/23
    「好きこそ物の上手なれ」。しかし「下手の横好き」という言葉もある
  • その存在を抹消する望み - 深く考えないで捨てるように書く、また

    こうのとりのゆりかごに捨てられた3歳の男の子のニュースやそれに絡んだ記事をなどを読んで、どんよりとした気分になる。 捨てられたのが新生児だったら、ここまでどんよりした気分にならなかっただろう。 自分の感覚からすると、新生児と親とは、まだ親子ではない。まず出産を通じて「あなたたちは親子ですよ」と宣言されただけ*1で、親子になるのはこれからだ。結婚するとき、婚姻届を出してもそれは「これからこの2人はそういう関係です」という単なる印であって*2、そこから始まり二人の関係性として作り出す結婚という状態のほうがはるかに重要であることと同じようなものだ。 新生児のうちに子を捨てるのは、最初から親子という契約をしない、そこに親子関係を作らない、ということのようなものだと思える。もちろんその是非は別として。 この男の子は、自分の父親が誰だか知っている。年齢的に、名前は正確に覚えていないとしても*3、顔を見

    その存在を抹消する望み - 深く考えないで捨てるように書く、また
    fjb1976
    fjb1976 2007/05/17
    父親は『子どもの人生から、自分自身を抹消したかった』のではないか、という指摘
  • 自分を語りたがらない人々 - 深く考えないで捨てるように書く、また

    自分にまつわる情報を極力出したくない人、と言い換えることもできるか。 ネットで長年活動していると、こういう人たちがいることに気づく。 実は実生活でもいるのだが、実生活ではあれこれ自分について語らなくてもコミュニケーションがとれるものなので、あまり意識しない。ネットだと、言葉をやりとりをしてなんぼ、なので、あれ? と気がつく。 古くからのネットの知人でも、ブログはおろか、クローズドのmixi日記でも、自分自身についてほとんど書かない人がいる。自分のべたものや、自分の行ったところ、ネタ的なものなどについては、時々簡単に書くが、それについて自分がどう感じたか、は書かない。それなら活動してないのかというと、そういうわけではなくて、他の人のブログや日記はけっこうまめに読んでいる。 他人とつながることを忌避しているわけではなく、自分自身の情報、特に心理的なことや感情的なことについて表に出すことを忌避

    自分を語りたがらない人々 - 深く考えないで捨てるように書く、また
    fjb1976
    fjb1976 2007/05/12
    『以前は、どんな場でもなんとなくROM(read only member)がいることが暗黙の了解だったが、最近のネット環境だと、(中略)発信(発言)しない=いないも同然、という感触になっている。』
  • 属性を嫌うのは結局楽な道なのだろう - 深く考えないで捨てるように書く、また

    属性を嫌ったり憎んだりするのは、実は楽なんだ。その相手人と直接対峙しなくて済むから。 この歳になると、ひと人と対峙することがそう苦痛でなくなって、誰かを嫌ったり憎んだりすることも自分自身の重荷として直接自分で担えるようになったから*1、属性だけで判断しないようにしよう、という心がけができるようになった。しかし、やはり若いころというか、思春期にはなかなかそうはできなかった。 男は云々。大人は云々。社会は云々。etc. レッテル貼りともちょっと違う。レッテル貼りは、まずそこに一人の人がいて、その人をジャンル分けしてそのジャンル・属性で判断する、という行為。 属性を嫌う、憎むのは、そこに人がいてもいなくても、その属性自体に対して判断している。つまり、実際に存在する人を嫌ったり憎んだりしなくても済む。 人を嫌ったり憎んだりするのは、やはりネガティブなエネルギーを発するものだし、それに伴う罪悪感

    属性を嫌うのは結局楽な道なのだろう - 深く考えないで捨てるように書く、また
  • ぐるぐるして、ぼとぼとすると、思考になる - 深く考えないで捨てるように書く、また

    ブログを読んでいて、まあ実際はブログに限らずニュースでもでもそうなんだけど、かくんと自分の感覚に引っかかることがある。 「ああ、そうそう、そうなのよ」ということもあるし「いや、なんか違う気がするなー」というときもあるんだが、どっちにしろ、引っかかるということは、それを読む前に自分の中で既にそのテーマについて何か感じている、というか感じていたということなわけだ。 で、引っかかった瞬間は、その引っかかりの正体がなんだかまだ判然としないのだけど、しばらくぐるぐると頭の中でブログの言葉を巡らせていると、だんだんと正体が固まって見えてくる感じがする。やがて、自分の中から「ああ、それについては私はこう思っているんだ」という形を成してくる。 この、だんだんと混沌から形ある思考に固まってゆく過程が、面白い。 たぶん、イザナギとイザナミが天の沼矛で混沌をぐるぐるぐると掻き回して、ぐいっと引き上げてぼたぼた

    ぐるぐるして、ぼとぼとすると、思考になる - 深く考えないで捨てるように書く、また
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