自動的に移動しない場合はをクリックしてください。
徳川斉昭と七郎麿(後の将軍徳川慶喜)の像(茨城県水戸市、千波公園) 徳川 斉昭(とくがわ なりあき)は、江戸時代後期の大名(親藩)。御三家のひとつ、常陸国水戸藩の第9代藩主。江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の実父である。 本項ではすべて「斉昭」で統一する。 寛政12年(1800年)3月11日、徳川治紀の三男として生まれる。生母は権中納言外山光実の養女(町資補の娘)・瑛想院(外山補子)。初めは父・治紀より偏諱を受けて松平紀教(まつだいら としのり)、藩主就任後は将軍・徳川家斉より偏諱を受けて徳川斉昭と名乗った。 藩政改革に成功した幕末期の名君の一人である。しかし将軍継嗣争いで大老・井伊直弼との政争に敗れて永蟄居となり、そのまま死去した。系図上の先祖である徳川光圀と共に、茨城県の常磐神社に祭神として祀られている[1]。 藩主治紀の子たちの侍読を任されていた会沢正志斎のもとで水戸学を学んだ。治紀には
茨城県鹿島郡夏海村(現東茨城郡大洗町)に生まれ、高等小学校卒業後、1900年(明治33年)に15歳で川崎銀行に入り水戸支店から銀行業務を始める。半年後、川崎銀行本店に移り20年間為替、貸付など実務を担当し、また川崎家の若手を指導した。自著「銀行とともに六十年」によれば、最終学歴は、神田錦町の夜学の東京商業学校(東京学園高校の前身)卒業[1][2]。 1919年(大正8年)35歳で、足利銀行に副支配人として派遣され、実質的に同行の運営を担った。地方銀行としては異例であったが、東京に本部機構を移し東京から本支店に取締役総務部長として指示をおこなった。この間、第一次世界大戦後の恐慌の直前に貸出の回収を断行し、恐慌のため市場の資金が逼迫すると一転して資金供給を図り優良取引先の拡大を行い、経営基盤の強化をした。また、競合銀行の買収を行うなどネットワークを広げ、宇都宮に拠点を確保した。関東大震災に際し
加倉井 砂山(かくらい さざん、文化2年11月3日(1805年12月23日)[1] - 安政2年7月14日(1855年8月26日)[1])は、江戸時代末期の日本の教育者、漢詩人。名は久雍(ひさやす)[2]、後に雍[2]。字は立卿[1]、通称は淡路[1]。号は砂山[2]、別号に西軒、懶庵など[1]。 加倉井氏は甲斐国南部郷の波木井氏から出たといわれ、鎌倉時代に加倉井(水戸市)に所領を得た。加倉井氏は常陸江戸氏の五大家老となり、領地に館と土塁を築いて戦国期には勢力となったが、天正年間に佐竹氏に滅ぼされ成沢(水戸市)に所領を得て帰農し、[要出典]代々庄屋を勤めた[3]。砂山の祖父の代からは郷士格であった[2]。 16歳の時、当主である長兄が没したため、家督を継いだ[2]。同族の加倉井忠珍から教育を受け、父久泰が開いていた私塾日新塾の補佐役として子弟の教育にあたり[2]、1824年(文政7年)20
川崎 八右衛門(かわさき はちえもん、1835年1月11日(天保5年12月13日)[1] - 1907年(明治40年)1月13日)は、東京川崎財閥の前身である川崎組、川崎銀行の創始者である。従五位。 天保5年12月13日(1835年1月11日)、現在の茨城県東茨城郡茨城町海老沢(涸沼西海岸)に生まれる。初名を縫殿助(ぬいのすけ)、諱は守安。川崎家は回漕問屋を営むかたわら、郷士待遇で水戸藩に仕えていた[2]。水戸藩第2藩主徳川光圀の時代に取り立てられ、代々30石の家禄を受けるこの地方の名門であった。 嘉永2年(1849年)数え年16歳で、家業の回漕問屋を継ぎ、八右衛門を襲名する。翌年、現在の水戸市成沢町の私塾「日新塾」(加倉井砂山開設)に入門し、砂山の次女である香蘭と結婚する。幕末には、財政逼迫に苦しむ水戸藩の鋳銭事業に取り組む。「水戸藩鋳銭座取扱い役」「警視庁御用金為替取扱方」などを経て、
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "第百銀行" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2023年3月) 1930年代の川崎第百銀行の広告 第百銀行(だいひゃくぎんこう)はかつて存在した都市銀行。(東京)川崎財閥の中核銀行だったが、1943年三菱銀行に吸収合併された。本店は東京都中央区日本橋一丁目7-9(現在ダヴィンチ日本橋179ビル所在地)にあった。行章は「百」の字を円形に図案化した物を使用。 池田謙三。大正元年より第百銀行頭取。日本経済団体連合会の前身・日本経済聯盟会結成にも関わる 第百銀行を合併した三菱銀行は、平成8年に横浜正金銀行を引き継ぐ東京銀行と合併(
研究学園都市支店(茨城県つくば市) 移転前の東京営業部(東京都中央区) 株式会社常陽銀行(じょうようぎんこう、英語: The Joyo Bank, Ltd.)は、茨城県水戸市に本店を置く地方銀行。 2016年10月1日付で めぶきフィナンシャルグループとの株式交換による完全子会社化により、傘下の足利銀行と経営統合した[5]。 茨城県の指定金融機関を受託している地方銀行で、預金・貸出金残高やメインバンク社数全国・都道府県シェアにおいて北関東三県に本店を置く銀行のうちトップの規模を誇る[6]。行名の由来は、茨城県を構成する旧2国(常陸・下総)のうち旧国の全域が茨城県となっている旧常陸国の「常」の文字に、明るいという意味をこめて「陽」を付けた事による。また、常陽は常陸の異称でもある。名づけ親は初代頭取の亀山甚である[7]。各支店には、同行のシンボルマークと、所在地の市町村章あるいは日本国旗が掲げ
旧川崎銀行本店・外壁部分(博物館明治村に移築・展示) 旧川崎銀行佐倉支店(現在は佐倉市立美術館として使われている) 東京川崎財閥(とうきょうかわさきざいばつ)は、川崎八右衛門によって設立された関東の財閥。単に「川崎財閥」と呼ばれることもあるが、川崎重工業を中心にする神戸川崎財閥とは無関係。創業者の名前から「川崎八右衛門財閥」とも、財閥の性格から「川崎金融財閥」とも呼ばれる。 水戸藩勘定方であった川崎八右衛門が1872年に東京に進出し川崎組を設立。この川崎組が1893年に合資会社川崎銀行に発展し、1919年に株式会社川崎銀行となる[1]。このほか、1876年に安田善次郎と共に東京・日本橋小舟町に第三国立銀行(現:みずほ銀行)の設立にも参画した。 東京川崎財閥は川崎銀行を中核企業として金融財閥として発展。川崎家が水戸出身であったことから、常陽銀行、足利銀行、千葉合同銀行(現:千葉銀行)、横浜銀
我々の時間についての遠近感は、時としてとんでもなく歪むが、それに気付く機会があまりない。 だから、何か一つの事項について年表をつくると、背筋が伸びるかのように、縮んでいた時間感覚を修正できる。 自分の経験だと、自分が生まれる前の、近現代あたりが、かなりアバウトにいっしょくたにされていることが多い。サルトルの『嘔吐』がベストセラーになるのはもっとずっと後のように思っていたが、実際は1946年である。 これは周りに質問してみるといい。世代によっては「70年代あたり」に「サルトルがブームだった」となってたりするので、自分と違う世代の人と質問し合うとおもしろい。 ベストセラーの悪口をいうにしても、ファクトを整理しといた方がいいと思って作った私物くさいリストであるが、いろいろツッコミどころや「発見」のしどころがあると思うので公開してみる。 現在に近づくほど、これまた私見だが、ベストセラーとして並ぶ本
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く