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2014年1月24日のブックマーク (10件)

  • 今村友紀 〈出版×デジタル〉の未来予想図 〜作家・今村友紀による『ツール・オブ・チェンジ』精読〜 #05:物書きに残された4つのポジション -「プライシングとマネタイズ」の未来予想図(後編)- DOTPLACE

    2014.01.23 Thu 今村友紀 〈出版×デジタル〉の未来予想図 〜作家・今村友紀による『ツール・オブ・チェンジ』精読〜 #05:物書きに残された4つのポジション -「プライシングとマネタイズ」の未来予想図(後編) ※前編はこちら 前回の記事では、Webサービスや出版社などのビジネス側に視点をおいて収益化の戦略をまとめたが、記事では、書き手にとって収入をどう確保しうるか、ウェブ時代における個々の書き手の生き残りの方策を考えてみたい。 《今回のまとめ》 ○現在の状況で文筆業を続けていくために取り得るポジションには、「スーパースター」「何でも屋」「プラットフォーマー」「兼業作家」の4つがある。 ○このうち「スーパースター」は狙ってなれるものではなく、「プラットフォーマー」はウェブの技術を自ら学び、スケールメリットを活かすことに徹すればチャンスがあるが、そうでなければ失敗を招きやすい。

    今村友紀 〈出版×デジタル〉の未来予想図 〜作家・今村友紀による『ツール・オブ・チェンジ』精読〜 #05:物書きに残された4つのポジション -「プライシングとマネタイズ」の未来予想図(後編)- DOTPLACE
  • 財津理の思想研究 ドゥルーズ/ラカン/ハイデガー 楽浪幻想5:万葉集 日本書紀 国民道徳要領・・・ドゥルーズと社会契約論

    いずれ、日教育現場に、保守的な道徳が復活するだろう。だから、戦前の国民道徳を明るみに出し、これを批判的に考えつづけていかなければならない。 戦前の国民道徳は、どれほど浅薄なかたちではあっても真剣に、日固有のものとされる精神から西洋思想と対決した。そうしなければならない理由があった。しかし私はこれまで、いずれの側からも、両者の対決を避けてきた。 メナールの『ドゥルーズと精神分析』の翻訳が終われば、ドゥルーズ/ラカン/ハイデガーに、夏目漱石に、そして欲望に戻ることができる。だが、たんに戻るわけではない。 ∴ 社会契約論をめぐって、ロールズはヒュームを叩き、ドゥルーズはヒュームから出発する。 ヒューム=ドゥルーズは、ホッブズからロールズにいたる契約論者たちとは異なって、契約以前の自然状態に利己主義よりも共感を見る。たとえば、子の喜びを親の喜びとし、子の苦しみを親の苦しみとする共感。 ただし

  • 財津理の思想研究 ドゥルーズ/ラカン/ハイデガー 楽浪幻想4:万葉集 日本書紀 国民道徳要領・・・たとえば愛国心

    万葉集 日書紀 国民道徳要領という三つテーマの関係はだんだんハッキリしていくはずだから、しばらくのご辛抱をお願いしたい。 また、私の西洋思想研究がどのように「国民道徳」と関連するのか、これについても少しずつ述べていく予定である。 ∴ 戦前の「文検(文部省中等教員検定試験)」受験のための「国民道徳要領」や「修身科」の参考書類を取りあげ、具体的にその内容を批判的に考察し、同時にそれが依拠している当時の出題委員あるいは学問的権威、すなわち主に東京帝国大学の哲学や倫理学や教育学の教授たちの研究業績に関係づける、というのが私の国民道徳研究の方向である。 戦前に中等教員を志した日人が必死に身に付けようとした「国民道徳」の内容たとえば「愛国心」を、上記の参考書の記述にそくして具体的に検討すること。そしてその「国民道徳」が、当時の国家権力の側にあったいわば高級イデオローグたちの諸研究をどのように通俗化

  • 遍愛日記 - 97

    「浅倉は」 疑問形なのかわからないものの、気にしているならこたえようと思う。 「浅倉くんは、私じゃなくてもだいじょうぶ。飛び降りたり首吊ったり夜の高速むちゃくちゃ飛ばしたりしなさそうだから。ミズキさんは、なんかやらかしそうで不安なの」 「それが、理由? それは僕が生きてけないって脅したからだよね?」 すなおに、うなずいた。 「ねえ姫香ちゃん、どうして浅倉はだいじょうぶだって思うの」 「だって、しぶといもの。あのね、ミズキさんは誰とでも付き合えるって感じじゃないけど、浅倉くんは誰とでも平気なタイプだもの」 彼は黙ってそれをきいた。それから、私のグラスに残りのワインをつぎたした。 「飲んで」 うながされて、とりあえず干しあげた。その間に壜をはこんできて、どこか性急に見える仕種であけていた。テイスティングする顔つきになったのはただ、いいかげんに転がしておいたワインの味を確かめるためのようだった。

    遍愛日記 - 97
    florentine
    florentine 2014/01/24
    「ミズキさん、そうじゃなくて……浅倉くんのことは、いいの」 「いいってどういう意味」やや苛ついた声に、私は顔を伏せた。これはもう、言うしかないのだ。「浅倉くんはほっといても、私のこと好きだから、いいの
  • 夢のように、おりてくるもの - 30

    叔父からメールが届いたのは試写会のほんの数日前のことだった。ぶっきらぼうをとおりこして、この国の言葉を忘れた人間のような文面だった。だったら外国語で寄越せと毒づいたほどだ。とはいえ、それがらしくもあっておれはため息と同時に微笑んだ。 著名な映画監督のもとに出入りしていた過去が功を奏したのか、はたまたその後にまた違う映画賞を受賞したせいか前評判はよかった。いわば凱旋映画なのだからと張り切った代理店の力も大きかったのかもしれない。 前日の夜は老舗のホテルで家族全員と会した。このときばかりは弟も顔を出した。出世する官僚にはそれなりに社交性というものがあるのだとおどろいた。弟は長年の屈託など水に流したと言わんばかりに笑顔だったが、注意深く話題を選り好みした。たぶん、次に会うときは誰かの葬儀だろうとおれは感じた。それでも家族なのだと、酔った頭で考えていた。 海外の長い姉は外国人のような顔をしていた

    夢のように、おりてくるもの - 30
    florentine
    florentine 2014/01/24
    「あなた、叔父さんと一緒であの亡くなった夢使いのひとに夢中だったものね」  それもまた、知らないはなしだった。叔父は、あのひとに妻を寝取られて憎んでいたのではなかったのか。
  • 佐藤亜紀明治大学特別講義INDEX - 事実だけとは限りません

    佐藤亜紀先生の『小説のタクティクス』が刊行されましたので、その基となった明治大学特別講義(2007~2009)のレポートを「鑑賞記」のカテゴリーから拾ってみました。 といっても、2007年度は1回しか行けてませんし(当時は関西在住だったので)、関東に移住した2008年からは毎回受講しているものの、レポートを上げることができなかった回もあります。いや、レポートをまとめるのは、かなりというかずいぶん大変だし時間もかかったんですよ。 そんなこんなですし、講義内容から私が考えたこと(要するに余談)もかなり混じってたりしますが、それなりにライヴ感もあるし、『小説のタクティクス』との比較もできるのではないかと。 2007年度第4回 2008年度第1回 第2回‐① 第2回‐② 第2回‐③ 第3回‐① 第3回‐② 第4回‐① 第4回‐② (第5回はレポートなし) 2009年度第1回 第2回‐① 第2回‐②

    佐藤亜紀明治大学特別講義INDEX - 事実だけとは限りません
  • 松永安左エ門 - Wikipedia

    松永 安左エ門(松永 安左衛門、旧字体:松󠄁永 安左衞門、まつなが やすざえもん、1875年(明治8年)12月1日 - 1971年(昭和46年)6月16日)は、明治末期から昭和にかけて長く日の電力業界において活動した実業家である。 長崎県壱岐島出身。「安左エ門」の名は父の名を襲名した(3代目安左エ門)もので、幼名は亀之助。石炭商などの事業を手掛けたのち明治末期から九州で電気事業の経営に関わり、1922年(大正11年)からは20年にわたり大手電力会社東邦電力を主宰した。太平洋戦争下では一旦実業界から退くも、戦後の占領下で電気事業再編成審議会会長として再起。電気事業再編成を主導して九電力体制への再編を推進し、その強硬な姿勢から「電力の鬼」の異名をとった。その後は電力中央研究所理事長に就任。また私設シンクタンク産業計画会議を主宰して日の産業経済全体について政策提言を行い、政府の政策に大きな

    松永安左エ門 - Wikipedia
  • 野崎広太

    岡山市平野出身。幼名兵三。諱は通礼。筆名汲古庵主。幻庵と号す。 賀陽郡平野村(現岡山市平野)で庭瀬藩士(のち酒造業)野崎通種・麻佐の長男に生まれる。1881(M14)平野村戸長とたるが、翌年父の死後、退職して上京。同年、三井物産から商況社に発行母体が変わった「中外物価新報」(1889、中外商業新報に改題、現日経済新聞)の編集にかかわる。 '85(M18)当時、岡山県出身の木村清四郎〔のち社長〕(11-1-5-1)の下で中堅記者として活躍。'91(M24)濃尾地震では特派員として経済的影響を連載して注目を集める。この間、'83(M16)慶応義塾に入り、福沢諭吉の門下生となる。'98(M31)主幹兼社長に就任。 1905(M38)経営難から合資会社商況社を解散、広太の個人事業として経営を承継する。以後、多彩な紙面展開で経営を建て直し、経済界の羅針盤としての重責を果たす。'11(M44)株式会

    野崎広太
  • 益田孝 - Wikipedia

    スフィンクスで記念撮影する遣欧使節団一行(1864年)、アントニオ・ベアート撮影 益田 孝 益田 孝(ますだ たかし、嘉永元年10月17日(1848年11月12日) - 昭和13年(1938年)12月28日)は、日の実業家。男爵。三井合名理事長。 草創期の日経済を動かし、三井財閥を支えた。明治維新後、世界初の総合商社・三井物産の設立に関わり、日経済新聞の前身である中外物価新報を創刊した。茶人としても高名で鈍翁と号し、「千利休以来の大茶人」と称された。 佐渡国雑太郡相川町(現在の新潟県佐渡市相川)に生まれる。幼名は徳之進。父の鷹之助は箱館奉行を務めた後、江戸に赴任。孝も江戸に出て、ヘボン塾(現・明治学院大学)に学び、麻布善福寺に置かれていたアメリカ公使館に勤務、ハリスから英語を学ぶ。文久3年(1863年)、フランスに派遣された父とともに遣欧使節団(第二回遣欧使節、または横浜鎖港談判使節

    益田孝 - Wikipedia
  • ヒステリーの発明 上 | シャルコーとサルペトリエール写真図像集 | みすず書房

    「今日われわれに、『サルペトリエール写真図像集』が残されている。すべてがそこにある——ポーズ、発作、叫び、「熱情的態度」、「苦悩」、「恍惚」、あらゆる錯乱の姿態。写真のもたらすシチュエーションが、ヒステリーの幻影と知の幻影との絆を理想的に結晶させたがゆえに、すべてがそこに有るように見える。呪縛の相互作用が定着したのだ。すなわち、「ヒステリー」の映像を飽かず求めつづける医師たち——従順に身体の演劇性を増幅していくヒステリー患者たち。こうしてヒステリーの臨床医学はスペクタクルになった。〈ヒステリーの発明〉だ。それは暗々裡に、芸術にも比すべきものに自らを同一化していった。演劇や、絵画とも紛うものに。」 「サルペトリエール施療院は、いわば女の地獄、苦痛の都だった」。哲学と美術史を横断するディディ=ユベルマンのデビュー作。増補新版(2012年)を元にしてここに甦る。 まえがき I スペクタクルの明証

    ヒステリーの発明 上 | シャルコーとサルペトリエール写真図像集 | みすず書房