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ブックマーク / www.rekihaku.ac.jp (16)

  • 研究報告 収録論文 176集~200集|研究報告|刊行物|歴博とは|国立歴史民俗博物館

    ※研究報告は(財)歴史民俗博物館振興会で取り扱っております。また、歴博内のミュージアムショップでも販売しています。 ※下記リストでは論文要旨を公開しています。「国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ」ではPDFを公開しています(一部の論文を除く)。 国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリはこちら 第200集 2016年1月刊行/A4/178ページ/定価1,232円(税込) タイトル セクション 著者

  • 書籍一覧 | 国立歴史民俗博物館

    開館時間: 3月 − 9月9:30-17:00、10月 − 2月9:30-16:30 開苑時間: 9:30-16:30(通年) ※入館・入苑は閉館・閉苑の30分前まで 休館日 : 毎週月曜(休日の場合は開館・開苑し、翌日休館・休苑 ※4月30日(火)、8月13日(火)は臨時開館・開苑) 年末年始(12月27日〜1月4日) 5月8日(水)、6月4日(火)、7月2日(火)、8月6日(火)、9月3日(火)、10月1日(火)、12月10日(火)、2025年1月7日(火)、2月4日(火)、3月4日(火)※その他館内メンテナンス及び悪天候等のため臨時休館・休苑する場合あり

    書籍一覧 | 国立歴史民俗博物館
  • 企画展示|展示のご案内|国立歴史民俗博物館

    広報画像① (左上/左下)『聆涛閣集古帖』鏡 江戸後期 国立歴史民俗博物館蔵 (右上/右下) 国宝 線刻釈迦三尊等鏡像(瑞花鳳凰八稜鏡) 平安時代 公益財団法人泉屋博古館蔵 鏡面に線刻仏像を毛彫りした鏡像の名品です。鏡面の裏には二羽の鳳凰と二個の花枝文を交互に配しています。吉田家旧蔵品の一つです。 古いモノ(古器物)に憧れる心は、いつの時代にもあります。実際にモノを集めることはもちろん、それが叶わない場合は画像だけでも手元に置いておきたい、そういう願望は、歴史が好きな人ならば、だれでも心当たりのあることでしょう。 歴博の館蔵品の中に、江戸後期に編纂された『聆涛閣集古帖(れいとうかくしゅうこちょう)』という図譜集があります。これは、兵庫県の神戸・住吉の豪商だった吉田家が三代にわたり編纂した、いまでいう「図録」や「カタログ」にあたるようなものです。考古資料、文書・典籍、美術工芸品など、じつにさ

  • 交通アクセス|利用案内|国立歴史民俗博物館

    国立歴史民俗博物館までの交通手段 電車をご利用の方 東京方面から JR東日利用の場合 東京駅から総武線佐倉駅(約60分)下車、バス約15分 (北口1番乗場から、ちばグリーンバス田町車庫行き乗車、「国立博物館入口」または「国立歴史民俗博物館」下車) 京成電鉄利用の場合 京成上野駅から京成線にて京成佐倉駅(約55分)下車、 徒歩約15分 (詳しくは案内図→駅からの徒歩路) またはバス約5分 (南口1番乗場から、ちばグリーンバス田町車庫行き乗車、「国立博物館入口」または「国立歴史民俗博物館」下車) ※成田スカイアクセス線(アクセス特急等)は京成佐倉駅を通りませんのでご注意ください。 京浜急行・地下鉄都営浅草線の相互乗り入れを利用の場合 地下鉄都営浅草線直通、京成佐倉駅下車 ※成田スカイアクセス線(アクセス特急等)は京成佐倉駅を通りませんのでご注意ください。 (青砥駅にて京成線にお乗換くだ

  • https://www.rekihaku.ac.jp/information/pdf/walkingmap.pdf

  • 企画展示「日本の中世文書―機能と形と国際比較―」 音声ガイド

     日の中世文書 ―機能と形と国際比較― 音声ガイド 聞きたい番号のボタンを押してください (終了) (停止しています) 2018 国立歴史民俗博物館

  • Microsoft Word - monjo2_text.docx

  • 弥生ってなに?!|企画展示|展示のご案内|国立歴史民俗博物館

    開館時間: 3月 − 9月9:30-17:00、10月 − 2月9:30-16:30 開苑時間: 9:30-16:30(通年) ※入館・入苑は閉館・閉苑の30分前まで 休館日 : 毎週月曜(休日の場合は開館・開苑し、翌日休館・休苑 ※4月30日(火)、8月13日(火)は臨時開館・開苑) 年末年始(12月27日〜1月4日) 5月8日(水)、6月4日(火)、7月2日(火)、8月6日(火)、9月3日(火)、10月1日(火)、12月10日(火)、2025年1月7日(火)、2月4日(火)、3月4日(火)※その他館内メンテナンス及び悪天候等のため臨時休館・休苑する場合あり

    弥生ってなに?!|企画展示|展示のご案内|国立歴史民俗博物館
    florentine
    florentine 2018/10/28
    “ 日本の中世文書―機能と形と国際比較― 2018年10月16日(火)~ 12月9日(日”
  • https://www.rekihaku.ac.jp/exhibitions/regular/img/pdf/kitano_2_13.pdf

    florentine
    florentine 2015/11/12
    室町幕府の奉行人(ぶぎょうにん)、中沢光俊(なかざわみつとし)・松田光秀(まつだみつひで)が、将軍足利義藤(あしかがよしふじ)(義輝(よしてる))の命令をうけて発給した文書。
  • https://www.rekihaku.ac.jp/GAZO/tana/disk4/IMG0030.jpg

    florentine
    florentine 2015/11/12
    室町幕府の奉行人(ぶぎょうにん)、中沢光俊(なかざわみつとし)・松田光秀(まつだみつひで)が、将軍足利義藤(あしかがよしふじ)(義輝(よしてる))の命令をうけて発給した文書。
  • 歴博甲本人物データベース

    洛中洛外図屏風「歴博甲」人物データベース −「歴博甲」に登場する1426人の人物像について,キーワードで情報を検索できます−

    歴博甲本人物データベース
  • 信長の政権構想

    1. 安土城の清涼殿と公家一統の政道 安土城の清涼殿 2000年2月、滋賀県教育委員会は、安土城丸御殿の発掘成果を発表し、その建物が、内裏の清涼殿にきわめて似たものであるとした。これは、信長が正親町天皇の行幸を予定していたとされることとも合致し、信長の政権構想ともからんで大きな関心を呼んだ。 今回作成した安土城のCGでも、発掘の成果と安土城郭研究所の御指導に基づいて、丸御殿は、当時の清涼殿風の建築にされている。 では、信長が安土城に清涼殿風の建物を置いたことの意味は、そしてそもそも信長が目指していた政権とは、いったい何だったのだろうか。今回の出品資料を手がかりに、少し考えてみたい。 三条西実澄の手紙 まず注目されるのは、公家三条西実澄(実枝)の二通の書状である(『田中穣氏旧蔵典籍古文書』424-3・4*)。日付を欠くが、実澄から実枝(さねき)に改称するのは天正2年(1574)12月であ

  • https://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/kojima/ichiran_2.html

  • 中世の制札(2005年12月改定版)

    florentine
    florentine 2015/06/29
    「問題は柱の高さで、これによってイメージがかなり変わると思われるのだが、残念ながら今のところ具体的なデータはない。ただ、「高札(たかふだ)」の語が中世からあり」あ、やっぱり具体的データないんだ。
  • 「永禄六年北国下り遣足帳」について

    歴博が所蔵する『永禄六年北国下り遣足帳(けんそくちょう)』は、戦国時代に行われた京都から東北までの長大な旅の記録であり、物やサービスの具体的な支出を記録した史料としても稀有のものである。その内容からは、お金さえ払えば宿泊や事ができるという中世後期の旅行システムの充実ぶりや、旅籠(はたご)に支払うのが朝代と夕代のみであるといった、当時の旅の様々な側面が明らかになってくる。 『永禄六年北国下り遣足帳』という史料 永禄六年(一五六三)の秋九月、京都の醍醐寺から北国に向かって旅立った僧侶がいた。これは、その僧侶が記した旅の消費の記録である。帳面の題は「北国下リノ遣足」とあるのみで、目的は不明だが、しかしそれが公的なものであったことは、このような会計帳簿を作成していたことから明らかである。このような支出メモは、当時「小日記」と呼ばれていたようで、大徳寺や東寺にも同じような旅の会計簿が残されてい

  • 「桶狭間の戦い」について

    BS歴史NHKの番組「BS歴史館」第50回「信長27歳 桶狭間に立つ」(2012年9月20日初回放送)に出させていただきました。桶狭間を専門に研究してきたわけではないので、むしろ信長の位置づけについて、といった趣旨で参加したのですが※、合戦自体についても、いろいろと考えさせられました。討論番組の性格上、言い尽くせなかったことも多く、私見を少しまとめておきたいと思います。 否定された通説 永禄3年(1560)5月19日(グレゴリオ暦だと6月22日)に起こった桶狭間の戦いは、かつては流布していた戦記物、小瀬甫庵の『信長記』などによって、上洛を目指して尾張に侵入した今川義元を、織田信長が奇襲によって倒した戦争、と考えられていました。しかし今日では、より信頼が置ける、信長の側近くに仕えた太田牛一『信長公記』などの史料の見直しによって、こうした見方は否定されています(藤正行『信長の戦争』講談社

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