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信長の政権構想
1. 安土城の清涼殿と公家一統の政道 安土城の清涼殿 2000年2月、滋賀県教育委員会は、安土城本丸御殿の... 1. 安土城の清涼殿と公家一統の政道 安土城の清涼殿 2000年2月、滋賀県教育委員会は、安土城本丸御殿の発掘成果を発表し、その建物が、内裏の清涼殿にきわめて似たものであるとした。これは、信長が正親町天皇の行幸を予定していたとされることとも合致し、信長の政権構想ともからんで大きな関心を呼んだ。 今回作成した安土城のCGでも、発掘の成果と安土城郭研究所の御指導に基づいて、本丸御殿は、当時の清涼殿風の建築にされている。 では、信長が安土城に清涼殿風の建物を置いたことの意味は、そしてそもそも信長が目指していた政権とは、いったい何だったのだろうか。今回の出品資料を手がかりに、少し考えてみたい。 三条西実澄の手紙 まず注目されるのは、公家三条西実澄(実枝)の二通の書状である(『田中穣氏旧蔵典籍古文書』424-3・4*)。日付を欠くが、実澄から実枝(さねき)に改称するのは天正2年(1574)12月であ