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ブックマーク / realkyoto.jp (4)

  • 浅田彰「パリのテロとウエルベックの『服従』」|REALKYOTO

    1月7日にフランスで諷刺新聞『シャルリー・エブド』(チャーリー・ブラウンにちなむ名前なので『週刊チャーリー』と訳したいところ)による預言者ムハンマドの諷刺画に怒ったイスラム過激派が編集部を襲撃して5人の諷刺画家やライターを含む12人を殺害、並行して起こったユダヤ系品店での人質立てこもり事件なども含めて、最終的に犠牲者は17人に上った(イスラム教徒も含まれる)。 『シャルリー』は1968年5月革命世代によるアナーキズム系の全方位斬りまくり諷刺新聞、前身が『Hara-Kiri』だったことからも推測できるように決して良識派の媒体ではない。筑紫哲也がインターネット上の匿名掲示板に溢れる書き込みを「便所の落書き」と呼んだことがあるが、あえて言えば『シャルリー』も「便所の落書き」に類するものだ。しかし、そもそもジャーナリズムや諷刺は「便所の落書き」から発生したと言うべきではないか。「便所の落書き」で

  • メイヤスーによるマラルメ|REALKYOTO

    浅田 彰 渡邊守章を中心とするマラルメ・プロジェクトの準備中、カンタン・メイヤスー(Quentin Maillassoux)のマラルメ論を検討する機会があった。メイヤスーは1967生まれ、人類学者クロードの子で、アラン・バディウに学んだ哲学者。デビュー作『有限性の後に』で、言語論的転回[→ポストモダン相対主義]への揺り戻しとして近年世界的に(私見では過度に→*注)注目されるいわゆる思弁的転回 speculative turn [→新たな形而上学]の代表格とみなされるようになった。「人間は人間が世界に投げかけたフィルター(とくに言語)を通したものだけを認識する」というカント−新カント派の「相関主義」を排し、人間と独立して存在する宇宙(数学的にとらえられる)の実在を肯定する。そのメイヤスーが最近出た『数とシレーヌ』でマラルメの「骰子一擲(さいの一振り)」の詳細な読解を試みているのだ。思弁性にお

  • バルテュス——「巨匠」となった倒錯者?| REALKYOTO

    浅田 彰(あさだ・あきら) 1957年、神戸市生まれ。 京都造形芸術大学大学院学術研究センター所長。 同大で芸術哲学を講ずる一方、政治、経済、社会、また文学、映画、演劇、舞踊、音楽、美術、建築など、芸術諸分野においても多角的・多面的な批評活動を展開する。 著書に『構造と力』(勁草書房)、『逃走論』『ヘルメスの音楽』(以上、筑摩書房)、『映画の世紀末』(新潮社)、対談集に『「歴史の終わり」を超えて』(中公文庫)、『20世紀文化の臨界』(青土社)などがある。 最新のエントリー 19.05.01 昭和の終わり、平成の終わり 19.03.29 原美術館のドリス・ファン・ノーテン 19.03.07 マックイーンとマルジェラ――ファッション・ビジネスの大波の中で 18.12.07 映画のラスト・エンペラー――ベルナルド・ベルトルッチ追悼 18.11.03 トランプから/トランプへ(5)マクロンとトラン

  • REALKYOTO

    佐藤雄一 マラルメ・プロジェクトⅢ(於京都芸術劇場春秋座 2012年7月22日)でステファヌ・マラルメ『イジチュール』が上演されました。『イジチュール』を上演?――それは、すこしでもマラルメにふれたことがあるひとならば、非常にスリリング、いや無謀にさえおもえるこころみでしょう。 それはちがう、とこの舞台の企画者のひとり渡邊守章は切り返します。曰く、マラルメは「聖務・典礼」(『ディヴァガシオン』所収)にみられるよう、カトリックの典礼や音楽劇のような未来の祝祭的群衆劇のヴィジョンをもっていた、彼の一見密室的な詩のなかにもそのような潜在的な演劇性が読みこめるのだ。曰く、『イジチュール』はそのうしろ背にハムレットをにおわすような「芝居」であり、いうなれば日の能のようなものだ… けれども、わたしはそれを耳にしてもなお、『イジチュール』の上演が実現するのかという疑いを消せませんでした。マラルメ

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