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ブックマーク / blog.goo.ne.jp/kawawalk (372)

  • 小淀3 - 神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

    小淀を流れる田用水が桃園川に合流するところです。といっても、例によって水路跡と重なる道路はなく、段丘沿いに目星を付けるしかありません。ところで、「中野町誌」(昭和8年)の巻末に収録された「中野の回顧」には、小淀の用水での雨乞いについての記述があります。「話は變るが雨乞も忘れ得ぬものゝ一つだ。盛夏旱魃となると村の百姓は寶仙寺の什物、蛇骨を白木の箱に入れて、小淀の田用水、今は埋立てられた伏見宮邸下を流れる小川の中に入り、素裸で『さんげ、さんげ、六根清浄』と唱え乍ら、白木の箱に水を注いで雨を祈るのが例になってゐた。」 ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) ・ 「

    小淀3 - 神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!
    fuktommy
    fuktommy 2018/03/03
    小淀3
  • 淀橋 - 神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

    「淀橋 東の方村界にて神田上水に架す、幅三間長十間許」(「新編武蔵風土記稿」) 「板橋 角筈村ニアリ淀橋長七間幅三間三尺」(「東京府志料」) 「淀橋 青梅街道上町(淀橋町)の西端中野町との境を流るゝ神田上水堀に架したる木橋にして長六間幅三間あり、明治四十一年十二月中架換へたるものなり」(「豊多摩郡誌」) ここまでは木橋でしたが、昭和18年(1943年)発行の「中野区史(上)」では鉄筋コンクリート橋です。「大正十四年七月、青梅街道改装と共に幅員十間の鐵筋混凝土橋に改造せられ、上には西武電車が通り(これは大正十四年以前からである。が、最近市電となった。)交通上の規模も大きくなり、利便を加えたが、往時の景致は失はれてしまったことは惜むべきである。」 ・ 淀橋  右上は大正9年撮影の木橋時代の淀橋、左下は大正14年に架け換えらた淀橋で、中野坂下を通る西武電車も写っています。「中野町誌」(昭和8年

    淀橋 - 神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!
    fuktommy
    fuktommy 2018/02/27
    淀橋
  • 中野村用水 - 神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

    昨日も引用した「新編武蔵風土記稿」の中野村に関する記述ですが、「用水には神田上水を用ゆ、是は田方十一町の所にかぎれり、残り二十丁余は所々の清水を用ゆ」とあるうち、前半の神田上水に関しては、水利の項で次のように敷衍しています。「水元は吉祥寺井ノ頭池より出、又遅野井村善福寺池より出、雑色、和田両村の境にておち合、郷村をへて村の東境を流れ、上落合村に注ぐ、此水末は江戸関口に達す、毎年三月より八月まで願主を立、郷村地内にて堰を設所々の水田に引用ゆ」 「郷村地内の堰」からの用水は、 → 「郷村絵図」の右上隅に描かれ、→ 「東京近傍図」では神田川の左岸を並行しています。 ・ 「中野村絵図」  中野区立歴史民俗資料館の「常設展示図録」(平成元年)に収録されている「中野村絵図」(「堀江家文書」 首都大学東京図書情報センター蔵)をもとに、神田川流域のある東半分をイラスト化しました。 ところで、「新編

    中野村用水 - 神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!
    fuktommy
    fuktommy 2018/02/24
    中野村用水
  • 新橋 - 神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

    前回UPの→ 「郷村絵図」で、神田川流に架かる橋は三ありますが、上流からいずれも現在名で新橋、中ノ橋、そして長者橋です。ただ、区画整理によって川も通りも直線化されたため、橋の位置は大部ズレています。これを「東京府志料」の橋梁リストと対比すると、新橋(長4間幅4間5尺)、中ノ橋と成願寺橋(いずれも長4間幅凡1間)です。新橋の名前の由来は一目瞭然ですが、どの橋にたいして新橋なのかは不明です。ただ、成願寺の参道に向かう成願寺橋が古くからあり、その次に架けられたので新橋、間に架けられたので中ノ橋との推測は可能です。 ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正10年第二回修正) / 中野」  現行の神田川をブルーで、郷通りと中野新橋駅前の通りをグレーで重ねています。 ・ 神田川  千代田橋から下流方向で、奥に氷川橋、その先が朱塗りの新橋です。なお、下流から進行中の護岸工事はここまで完了

    新橋 - 神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!
    fuktommy
    fuktommy 2018/02/15
    新橋
  • 弥生町4の水路4 - 神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

    仮に弥生町4(丁目)の水路と名付けた小支流の最後です。栄町公園、方南通り(栄町通り)を越え、その先端は南台2丁目に達しています。そこに谷頭と呼べるものは見当たらず、湧水があったとしてもごく小規模だったものと思われ、主要な水源は雨水のはけ水路だったのでしょう。なお、弥生町の名前の由来ですが、地域内の数個所から弥生遺跡が発掘されたことにちなむようです。郷弥生町で発見された遺跡が弥生遺跡、その弥生遺跡が発見されたから弥生町、遺跡つながりで地名がコピーされたわけです。これに対し、南台の方はよくわかりませんが、南側にある台上というそのままの意かもしれません。 ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定

    弥生町4の水路4 - 神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!
    fuktommy
    fuktommy 2018/02/10
    中野区弥生町から土器が出たから弥生時代なのかと思ってた。 弥生町4の水路4
  • 善福寺川合流 - 神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

    神田川と善福寺川の合流地点が現在のようになったのは、昭和初期から段階的に行われた区画整理事業によってでした。昭和2年(1927年)に発足した中野町第二土地区画整理組合によって、淀橋から杉並区との境までの改修が先行、それを引き継ぐ形で、和田堀町第一土地区画整理組合が区境から善福寺川の駒ヶ坂橋までを改修しました。現在の和田1丁目に相当するエリアです。同組合は昭和5年の発足で、事業は同17年までかかりますが、その成果の大半は「昭和12年第四回修正」に反映されています。 ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和12年第四回修正) / 中野 」 → 「明治42年測図」と同一縮尺、同一個所なので、土地区画整理事業の進展を時系列で追うことができます。 次いで、昭和16年に相次いで発足した中野土地区画整理組合、和田堀町第二土地区画整理組合によって、合流地点以降の神田川と駒ヶ坂橋以降の善福寺川の改修

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    fuktommy 2018/02/05
    善福寺川合流
  • 堂ノ下橋 - 神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

    乙女橋の次が堂ノ下橋です。→ 「東京近傍図」にも同じ場所に橋が描かれており、「東京府志料」の橋梁リストでは「三田橋」、豊多摩郡誌」(大正4年)では「堂の下橋」となっています。三田、堂の下とも「新編武蔵風土記稿」には収録されていませんが、→ 「村絵図」に「山田」、「道の下」と表記された上高井戸村の小名で、後者の由来は左岸台上にあった松林寺(高井戸東3丁目に移転)といわれています。なお、堂ノ下橋のやや下流で右岸に用水を分岐していましたが、塚山公園までの痕跡は失われ、たどることのできるのは、下高井戸村に属する公園以東です。 ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年測図) / 上高井戸」   ブルーで改修後の神田川の流路を、薄緑で塚山公園を重ねています。また、オレンジ線は高井戸町大字上高井戸と大字下高井戸の境です。 ・ 神田川 堂ノ下橋から下流方向です。「地形図」を見ると、堰が設けられ

    堂ノ下橋 - 神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!
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    fuktommy 2017/11/08
    堂ノ下橋
  • 久我山左岸3 - 神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

    左岸の水田を灌漑する用水を追っての三回目です。前回最後のマンション敷地際の水路跡は、久我山駅のプラットホーム手前で中断しますが、来の流路はそのまま駅の北側にシフト、例の古道にいったん沿っていました。→ 「久我山村絵図」で古道と接するのは、二番目の橋を通る道との交点前後ですが、この道は久我山駅前を南北に走る通りにあたります。その後、用水は段丘を上る古道と離れますが、この間の確定的な痕跡はなく、いつもの青点線は書き込んでいません。なお、こうした流れとは別に、駅前で右カーブし流に戻る水路があった可能性もあります。 ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

    久我山左岸3 - 神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!
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    fuktommy 2017/10/07
    久我山左岸3
  • 久我山左岸2 - 神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

    久我山村の水田を灌漑していたうち、左岸を流れる田用水を追っての二回目で、今回は稲荷神社下で江戸道(久我山街道)を越えた先までのウォーク&ウォッチです。カラーブロックの遊歩道ではありませんが、全行程にわたって車止め、段差など水路を示す表象が連続し、迷うことはありません。昭和30年代の空中写真には、スリット蓋の開渠が写っており、比較的最近まで現役だったのでしょう。 ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    fuktommy 2017/10/06
    久我山左岸2
  • 久我山右岸2 - 神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

    久我山村の水田を灌漑していた用水のうち、右岸を流れていたものの二回目です。大熊堰で流から助水を得た後ですが、→ 「久我山村絵図」を見ると、宮下橋、久我山橋を越え、上高井戸村境で流に戻っていたはずです。ただ、現在確認できる痕跡は宮下橋までしかありません。久我山駅前の宅地造成による影響ももちろん、昭和の初めに久我山駅前を通る人見街道のショートカット区間が、右岸流の流路と重なる形で開削されたことが大きかったものと思われます。 ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

    久我山右岸2 - 神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!
    fuktommy
    fuktommy 2017/10/04
    久我山右岸2
  • 久我山駅前 - 神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

    宮下橋から久我山駅前に架かる久我山橋まで、右岸の遊歩道に接して宮下橋公園、久我山中央緑地と、二つの公園が連続して設けられています。昭和50年代に神田川が直線的に改修された際、切り取られた区画を埋め立て公園として整備したもので、蛇行の跡を留めてその形状が三日月、ないし半月形になっているのが特徴です。もっとも、久我山駅にいちばん近い蛇行部分は、公園にするスペースが足りなかったのでしょう、幅の広い遊歩道の一部となっています。 ・ 「昭和38年国土地理院撮影の空中写真」  ブルーで重ねたのは現行の流路で、右岸にはみ出した部分が久我山中央緑地などとして整備されています。 ・ 久我山中央緑地  右岸段丘にい込む半月状の公園です。左手奥にチラッと見えるのは都橋ですが、「豊多摩郡誌」(大正5年)では久我山橋がそうなっています。

    久我山駅前 - 神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!
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    fuktommy 2017/10/04
    久我山駅前
  • 久我山村 - 神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

    「久ヶ山村は、郡の東にあり、江戸日橋より行程凡五里余、民家六十四烟、・・・・東西凡十二町余、南北十町許、畑多く、田少なし、村の中通り東西へ低、南北の方高く、この中通りの低き所は神田上水路にて、土性は黒土なり、水旱の患あり、村内一條の往還あり、西の方無礼村より東の方上高井戸村に通ず、村にかゝること凡十二町、道幅三間許、是を江戸道と云」 「新編武蔵風土記稿」の記述です。最後の「村内一條の往還あり」は、牟礼村のところでも言及されていた古道ですが、神田川を越えるところは「東京近傍図」に書き込んだようにショートカットされ、現在は人見街道と呼ばれています。 ・ 「東京近傍図 / 布田驛」(参謀部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は市区境で、同細線は高井戸村当時の村、大字境です。 久我山の地名由来については不明

    久我山村 - 神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!
    fuktommy
    fuktommy 2017/10/01
    久我山村
  • 久我山村用水 - 神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

    「玉川上水 村の南を流る、西の方無礼村より来り、東の方上高井戸村に至る、村にかゝること凡八町許、神田上水 村の中央を流る、西の方吉祥寺村より来り、東の方上高井戸村にいたる、村にかゝること是も八町許、此水を以て所々の水田に沃く」(「新編武蔵風土記稿」) 久我山村の水田は神田上水にのみ依存していました。「杉並区近世絵図」(平成5年 杉並区教育委員会)に収録された成立年代不詳の村絵図には、神田上水と並行して左右二の田用水が描かれ、その間の細長い区画が田圃となっています。現在の地図に当てはめると、幅70~120m、長さは1km弱というところでしょうか。「東京府志料」の数字ではその面積は十町十六歩です。 ・ 「久我山村絵図」  「杉並近世絵図」(平成5年 杉並区教育委員会)に収録された「久ヶ山村絵図」を元に、久我山村の水田や田用水を強調したイラストになっています。 大正5年(1916年)に発行され

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    fuktommy 2017/10/01
    久我山村用水
  • 親水エリア - 神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

    井の頭池を流れ出した神田川は、その先で井の頭線の鉄橋をくぐり、その北側を並行します。鉄橋から夕焼け橋までの200~300mは、神田川の全流域の中で最も自然河川らしい景観を保っています。ほとんどの流域がコンクリート三面張りの、いわば巨大なU字溝ですが、ここだけは土の岸辺が残っていて、石垣や木の柵によって護岸がされ、川の中には多くの石が点在しています。もちろん、人工のものではありますが、昭和60年前後の数年間にわたる住民運動の結果で、最近普及してきた親水護岸のはしりとなったエリアです。 ・ 神田川  水門橋の次に架かるよしきり橋からのショットです。神田川は明大前駅まで京王井の頭線とほぼ平行、途中で三度クロスしますが、ここが最初の鉄橋です。 ・ 神田川  鉄橋から次の夕やけ橋にかけてで、自然河川の面影を残すところです。一見無造作に置かれた石ですが、石伝いに渡ることのできるよう設計されています。

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    fuktommy 2017/09/09
    親水エリア
  • 無礼(牟礼)村 - 神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

    「無礼村 無礼村は郡の東北によれり、・・・・開発の年代は伝えざれど新座郡小榑村より高橋図書と云もの来り発しとも云り、『小田原北条分限帳』に大橋九貫文無連高井堂とあり、無連は当村のことなり、其頃はかく書しなり、・・・・民家百五十軒、畑多して田少し、村内一條の街道あり、西の方下連雀村より入、東の方久ヶ山村に達す、村内を径ること凡二十町、道幅五間」(「新編武蔵風土記稿」) 大橋氏の持ち分とされる「無連高井堂」のうち、後者は無礼村の隣の隣にあたる高井戸村と目されています。また、最後の「村内一條の街道あり」は、村尾嘉陵も歩いた古道で現在の人見街道です。 ・ 「東京近傍図 / 布田驛」(参謀部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は市区境で、左上から時計回りに武蔵野市、杉並区、三鷹市、旧名は吉祥寺、久我山、無礼村で

    無礼(牟礼)村 - 神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!
    fuktommy
    fuktommy 2017/09/09
    無礼(牟礼)村
  • 井の頭池4 - 神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

    前々回UPの→ 「江戸名所図会」のうち、弁天島周辺の→ 拡大図を見ると、三の立て札が描かれています。弁財天の別当だった大盛寺の立てたもので、左下から右にかけて家康がお茶を立てた湧水「お茶ノ水」、家光が楊枝をさしたところ根付いたという「御楊枝柳」、やはり家光が井の頭の文字を刻んだ「辛夷(こぶし)の木」の解説プレートです。注目は「お茶ノ水」の場所で、弁財天を祀る島と半島状に突き出す中之島のほぼ真ん中にあり、この事情は「上水記」添付の「神田上水水元井之頭より目白下附渕まで絵図」でも変わりません。 ・ 「神田上水絵図1」  「上水記」(寛政3年 1791年)に収録された「絵図」中、冒頭に描かれた井の頭池、弁天堂付近をイラスト化したものです。 「上水記」もまた「井之頭の池建札三枚左の如し」として、その内容を各々紹介していますが、うち「お茶の水」に関する記載は次のようなものです。「井の如くかまへたる

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    fuktommy
    fuktommy 2017/09/06
    井の頭池4
  • 井の頭池5 - 神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

    「神田上水水元井之頭より目白下附渕まで絵図」には、井の頭池から神田上水が流れ出すところに石橋が架かり、その脇にも立て札が描かれています。これは弁天堂周辺のとは異なり、上水の保全を目的とした公的な立て札(高札)でした。「上水記」(寛政3年 1791年)は、天明8年(1789年)時点での神田川、玉川両上水の高札リストを載せていますが、うち「井之頭池上水口北方高札」の文言は、「定 此池之内並上水道におゐて、魚鳥を取、水をあひ、ちり芥捨輩あらば、曲事たるへき者也」となっています。なお、神田上水関係では他に、淀橋、小滝橋、田島橋、面影橋の際と大洗堰上流の水神前、そして、大洗堰入口に立っていました。 ・ 「神田上水絵図2」  「上水記」に収録された「絵図」中、神田上水が流れ出す水門周辺をイラスト化したもので、前回UPのと連続しており、左下の溝様の個所は「玉川助水路から堀」です。 こうした高札の管理も持

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    fuktommy 2017/09/06
    井の頭池5
  • 井の頭池3 - 神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

    「慶長十一年大神君適(たまたま)こゝに至らせ給ひ、池水清冷にして味ひの甘美なるを称揚し給ひ、御茶の水に汲せらる。又寛永六年大将軍家こゝに渡御なし給ひ、深く此池水を愛させられ、大城の御許に引せらるべき旨鈞命ありて、御手自池の傍なる辛夷の樹に、御手柄をもて井頭と彫付たまふ、是より後此池の名とす。承応年間、官府より井頭の水道を開かせられ、初めて神田に引給ふ。故に神田上水の称あり」(「江戸名所図会」) 最後の承応年間は玉川上水との混同で、神田上水の開削はより以前ですが、ただ、その年代、経緯に関しては二つの説(伝承)が混在しています。 ・ お茶の水  「その昔、当地方へ狩に来た徳川家康が、この湧き水の良質を愛してよく茶をたてました。以来この水はお茶の水と呼ばれています」との、東京都の解説プレートが立てられています。 一つは天正18年(1690年)江戸開府の際、三河を考案したことでも有名な大久保主水

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    fuktommy 2017/09/02
    井の頭池3
  • 神田川 - 神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

    「三鷹市の井の頭池を源とし、善福寺川、妙正寺川を合流したのち、JR水道橋駅付近で日橋川を分派し、隅田川に注ぐ全長25.48kmの河川です。」 東京都建設局のホームページにある神田川に関する記述です。全長に関しては24.6kmとの数字もあり、その辺の事情は不明ですが、いずれにしても、都内を流れる中小河川としては最大規模で、流域面積も100k㎡を越えています。上流部分は江戸時代に「神田上水」として整備され、関口大洗堰で分流後、神田、日橋一帯に飲料水を提供していました。そのため、関口より上流を神田上水(井の頭上水とも)、関口から船河原橋の通称ドンドンまでが江戸川、それ以降が神田川と呼ばれていました。全体を通して神田川となったのは昭和39年(1964年)に制定された河川法以降です。 ・ 「豊島、多摩、荏原三郡村絵図」  「杉並近世絵図」(平成5年 杉並区教育委員会)に収録された「豊島、多摩、荏

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    fuktommy 2017/09/02
    神田川
  • 井の頭池2 - 神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

    「井ノ頭池 すべて二万坪許の池なりと云、一円に葦生茂れり、往古はこの池を神箭の水と呼びしを、大猷院殿この辺御遊覧のおりから当所にわたらせたまひて、此池は江戸のほとりの井の頭なりと上意ありしにより、今に名にせりと云、此池の内に弁財天、聖天の両社ありて、井ノ頭を冠りとのぶれど、其社地は無礼村の地に入れり」(「新編武蔵風土記稿」) おそらく、弁天堂の別当だった大盛寺が牟礼村に属していた関係でしょう。これに対し池自体は→ 「三郡村絵図」にもあるように、吉祥寺村に属していました。この井の頭池の記述も、吉祥寺村の水利に関する項目の中で扱われています。(どのような経過によってかは不明ですが、現在は池全体が三鷹市に属しています。) ・ 「江戸名所図会 / 井頭池 弁財天社」  「井ノ頭池 神田上水の源なり。長さは西北より東南へ曲りて三百歩ばかり、巾は百歩あまりあり。池中に清泉湧出する所七所ありて、旱魃にも

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    fuktommy 2017/09/02
    井の頭池2