CZTのブログ 初老にさしかかった会社員が、通勤中に読んだ仕事関係その他の本や聴いた音楽、あるいは時たま出かける美術展の感想や折々に考えたことの断片をつづります。 第2章 拍子についての暫定的所見 時間的現象要素の規則的な反復という命題によって定義されているものはもちろん現実に経験可能な何かである。たたしかしそれはリズムではなく、単なる系列あるいは拍子である。もしあらかじめ拍子の最重要な属性について簡単な予備考察を行わなかったなら、始めから方向を間違える危険があるであろう。拍子は、音響芸術においてはもともと弦を規則正しく打つことあるいは爪弾くことあるいはまた時間の歩みを打楽器によって強調することに用いられるものであった。 機械仕掛けで動くハンマーで三分の一秒おきに金属製の台を同じ強さで打つようにする。聞き手が音の大きさや間隔を見積もろうとしないで素直に印象に身を委ねるときには、バラバラの音
CZTのブログ 初老にさしかかった会社員が、通勤中に読んだ仕事関係その他の本や聴いた音楽、あるいは時たま出かける美術展の感想や折々に考えたことの断片をつづります。 第1章 現象研究の意味について 本質研究は原因研究よりももっと決定的に、取り扱う分野をできるだけ厳密に限定することが必要である。しかし概念を定義するためには、まさに定義されるべきものはこれからはじめて突き止められなければならないことであるのに、それを十分によく知っているということが多少とも前提になる。それゆえわれわれの論述は、リズムの定義へ向かう一歩ごとにちょうどその分だけリズムの本質の洞察になじんでゆくような仕方を選ぶことにしよう。 誰でもがよく知っていることと関連させて、次のように言ってみよう。リズムとは時間的現象を規則的に分節化したものである、あるいは分節のほうに注目して、リズムとは現象の時間的構成要素が規則的に反復するこ
CZTのブログ 初老にさしかかった会社員が、通勤中に読んだ仕事関係その他の本や聴いた音楽、あるいは時たま出かける美術展の感想や折々に考えたことの断片をつづります。 この本は、音楽がわかるとは難解な暗号を覚えることとは違うという信念から書かれた。音楽の多くの局面はもちろん長い学習の成果だが、音楽の感情的、劇的な意味をとらえるのは瞬時のことだし、音楽に馴染みさえすればそれは出来る。最も初歩的な意味で、音楽がわかるとは聴いて楽しむことを意味するにすぎない。たしかに耳慣れない音楽や、はじめて聴いたときに違和感のある音楽だと、楽しめるようになるまでには何度かくりかえして聴く必要があるし、あえて新しい感覚を試みるには、そもそも多少の善意がなくてはならない。だが音楽の存在理由である自然な楽しみのために専門知識はまず必要ない。 私は音楽が表現する情緒とは何なのかをつきとめることよりも、その表現のしかたが二
CZTのブログ 初老にさしかかった会社員が、通勤中に読んだ仕事関係その他の本や聴いた音楽、あるいは時たま出かける美術展の感想や折々に考えたことの断片をつづります。 Ⅰ.破門とスピノザ 筆者は最初にスピノザの16年前、スペインからオランダに脱出したキリスト教徒がユダヤ教の入信し、上手く溶け込めず、教会から破門され、絶望と社会から疎外されたことを苦に自殺に追いやられてしまった事例を紹介する。 スピノザは、オランダのユダヤ人社会に生まれ、生家はそこでの有力者であったことから、上記のケースと趣はことなる。 ユダヤ教会の破門には2種類ある。その第一はニッドゥイと呼ばれ、罪を犯した人間をユダヤ人社会から追放する制裁で、一般に制裁を加えるという行為には、治療的効果を目的とするものと、ある個人の存在自体を否定、抹殺する目的を持つものと、二つのタイプがあるが、これは、前者に属する。すなわち、この破門は、問題
CZTのブログ 初老にさしかかった会社員が、通勤中に読んだ仕事関係その他の本や聴いた音楽、あるいは時たま出かける美術展の感想や折々に考えたことの断片をつづります。 抽象表現主義というようなモノモノしいのとか、あまり関係ないのか、ジャクスン・ポロックというのはビッグ・ネームの権威になっているのか、老若男女で込み合っていました。 ジャクスン・ポロックの代表的な作品は、抽象表現主義と呼ばれる、いわゆる抽象画です。難が何だか分らない、難解だと一般的には言われているようです。 まず、このような抽象画(といっても、ホロックの抽象とカンディンスキーの抽象では意味合いが違うのでしょうけれど、ここでは便宜上一括化します)に対して「分らない」という言い方がなされます。このようにことに対して、評論家の先生や手引書などでは、”あまり考えすぎずに、無心に感じてみましょう”というようなご指導が為されることが多いです。
CZTのブログ 初老にさしかかった会社員が、通勤中に読んだ仕事関係その他の本や聴いた音楽、あるいは時たま出かける美術展の感想や折々に考えたことの断片をつづります。 序 不確実性のリアリズム─決定論の虚妄性 私たちはいつも不確実性に取り囲まれている。何がどうなってしまうのか確実には分らない、だからつねに不安感が生じてしまう。そして、こうした不確実性こそが、私たちの日常、私たちの常態なのだとしたら、むしろそれを私たちの現実、私たちのリアリティとして受け取るべきなのではないか、人間や生物を眺める時、こうした「不確実性のリアリズム」の立場に立つことはとても大切なことだ。もし未来の希望がありうるとしたら、それは不確実性から目をそらして不安を打ち消すことによってではなく、むしろ私たちのリアリティである不安と不確実性をそのまま受け入れ、まずはそこに浸りきることによってこそ開けてくるのではないか。逃げたり
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