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ブックマーク / blog.szk.cc (12)

  • 高齢化する学校文化

    今年を振り返って思うのは、意外にも高齢の方の前で講演をする機会が多かったことかな、と思う。世の中全体が高齢化しているわけだし、自分もばっちりアラフォーなわけで、そんなに変なことではないのかもしれないけど、やっぱり「何を意図して僕をこの場に呼んだのだ」と、僕だけじゃなくて聞いている方も思ってたんじゃないかという不安は拭えない。 とはいえ話す方としては学ぶことも多いわけで、その中でもとりわけ貴重な経験だったのは、神戸市シルバーカレッジでのレクチャーだろうか。ここは、その名の通りシニアのための学校なのだけど、具体的に学びを目標とするカルチャーセンターのようなものではなく、むしろ学校に通って学ぶことが目標となっているような、そういう施設だという印象を持った。年額5万円ほどの学費で、3年間の課程があり、入学式も卒業式もある。クラブ活動が盛んで、週2日ほどの授業日以外にも、部活のために学校に来るという

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  • 第85回日本社会学会大会まとめ « SOUL for SALE

    この週末は、日社会学会の年次大会のため札幌。数年前に訪れて以来だったのだけど、なにせ今回はかなり慌ただしい学会だったので観光的なことはほとんどできず。というのも、自分の報告に加えて日韓フォーラムという国際部会にも登壇することになったため、ほぼずーっと学会に張り付いてないといけなかったからだ。学会っていうのは普段勉強してない分野の話、最新動向が聞けるから楽しいのに、自分が緊張状態でアウトプットするだけというのはほんとにつまんない。まあ夜は夜で2年前の名古屋と同じ後輩を引き連れてかなり深い時間までススキノを飲み歩いてたのでそれは楽しかったんだけど。 内容的なことを振り返ると、初日の報告は、おそらくは日韓フォーラムとのスケジュールの調整で会話分析の部会に放り込まれたため、議論の時間を奪っちゃって申し訳なかったなあとか。でも会話分析って初めて聞いたんだけど、一般的な疑問として、会話内での権力関係

  • ギャル演歌の世界へようこそ Part.3

    まさか思いつきでブログ書いてから2年もたって新聞記事になると思わなかった「ギャル演歌」論。今朝の朝日新聞の記事では、もう曲がり角に来ているって話になっていて、それはまあその通りだと思うのだけど、なんか提唱者ってことになってるし、初めてこの言葉を聞く人からすると誤解されそうというか、こういう歌が好きな人からは、何も知らない学者が自分の好きなものをけなしてる!ってなるだろうし、興味ない人からは、また適当な造語を作ってお気楽な仕事よねーとか思われるわけで、一応フォローとかなんとか。 前の記事でも書いたとおり、僕自身はギャル演歌と呼んでいる一連の曲が大好きだし、というかすげえ病みながら泣き歌聴いてマジわかるってなってる子たちの気持ちもリアリティを持って受け止められるつもり。行きがかり上、TSUTAYAに行くと「S Cawaii! presents S Songs ~恋のコトバ。~」だとか「Cele

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  • ソーシャル化で失われるモノ?

    これは僕の話じゃなくて一般的な傾向として、「ソーシャル化」の流れを許せない人というのがいる。この場合のソーシャル化とは、さまざまなコンテンツやデバイスがソーシャルメディアと連携したものになるとか、オンラインでのコミュニケーションと統合されていくとかそういうこと。ゲームの世界なんかではソーシャル批判が根強くて……なんてことを考えていたらこんなエントリも飛び出した。 「こっちは人とコミュニケーションしたくなくてゲームの世界に来てんのに、そこでも人間関係を求められてウザい」って文句は割と以前からあって、僕もそっち派ではある。でもこれってすごく示唆的で、早くからユーザーたちは、ソーシャル化ってことはつまりオンラインの世界が現実と同じものになる(そのことによって最大の魅力を失う)ということを感じ取っていたわけだ。 しかし、それで失われるものってなんだろう、とも思う。一応日の社会学で語られてきたこと

    ソーシャル化で失われるモノ?
  • 「みんな知っていること」

    世の中には、色んな事情で「明るみに出ないこと」というものがある。たとえば、不正に関わることだ。不正というのは悪いことだから、暴かれない限りまずおおっぴらにされることはない。だが不正が起きるのにもそれなりの理由があって、気がついたらその不正を前提に行動しないといけなくなるなんてこともある。「談合」なんてのはその一例だろう。 明るみに出ない出来事とは、要するに「公式的には事実でないが、非公式には事実である」ということだ。その存在を誰も認めることはないけど、ほんとうにそれが事実でないかのように振る舞うとバカを見るので、非公式な事実に基づいた行動が求められるようになるのだ。 そして大抵の場合、こうした非公式な事実は、それがあることを知っている人間には有利に働くか、あるいは知らないと損をするという性質をもつ。だから非公式な事実は一部の人によって独占されるのだけど、独り占めしすぎると、その恩恵にあずか

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  • 時間は有限だが可能性は無限だ

    35歳になった。統計上は「若者」の定義から外れる年齢ということになろうか。正直なところ若いか若くないかという感覚そのものが鈍っているので、そういわれてもあまり感慨はない。一応、今年で物書きとしてお金をいただくようになってから、つまりデビューしてから10年ということになるのだけど、歴史というか社会的な風潮の目安としてのディケイドと、自分の人生の中の10年というのは同じ物差しでは測れないわけで、こっちも「へえ」くらいの感想だったりはする。 35歳問題、という奴にも直面しそうな気配はない。自分の人生を振り返れば、なれたはずの自分、失わなくてもよかったはずの関係、今なら選ばないはずの大事な選択は、山ほど数え上げられる。けれど、もうここに至るまで何度も何度も後悔して懺悔して諦めて開き直ってまた後悔してを繰り返してきた僕にとって、「取り返しのつかないこと」が持つ重みなんて、いまさら突然増えるはずがない

    時間は有限だが可能性は無限だ
  • 「電子書籍元年」とオープン戦略の意味

    インターネットが登場した頃、これで紙のメディアは不要になると言われたことがあった。実際、オフィスでの文書のやりとりは徐々に電子化され、いまでは細かな文書はメールで送られることが普通になっている。けれどその一方で、コンピューターやインターネットに関する雑誌や書籍が売れるという出来事も起きたのだった。 昨年あたり騒がれた「電子書籍元年」も、それが既に三度目の「元年」であることがたびたび指摘されたが、電子書籍より、電子書籍やリーダーを特集した紙媒体が売れるという点でも、過去に何度か見た風景の繰り返しだったように思う。もっとも、デジタル化、情報化で世界が変わる、歴史が変わる、働き方が変わる、という話そのものが、1960年代から語られ続けている「狼少年」の類だったりするのだけど。 では何も変わっていないのかというと、もちろんそんなことはない。変わったとか変わってないとかは、変化する枠組の定義次第でな

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  • ニュースとしての行動履歴――mixiとfacebook

    最近、ぼんやりとfacebookを眺める機会が増えた。特に何かを発信するわけでもなくて、何かを書くときも英語で、と決めているので、基的には見ているだけ。しかも流れてくる情報にもあまり興味を持てない(他のサービスだってそうだけど)ので、ほんとにただの「読み流し」。でも、しばらくそうやって読み流しているうちに、facebookのインターフェイスが想定しているのは、そうした「読み流し」なのではないかという気がしてきた。 少し遠回りして説明しよう。人がウェブサービスを利用する大きな動機は「反応が返ってくること」だと言われている。言いたいことを言いっぱなしに言えるからではなくて、自分のアクションに対して何かリアクションが返ってくると、それにさらにリアクションをしたくなってしまう、というわけだ。もちろんそれはポジティブなリアクションばかりとは限らない。けどネガティブなリアクションの連鎖も「2ちゃんね

    ニュースとしての行動履歴――mixiとfacebook
  • 脱・個人所有の時代は来るか

    昨年はあまり目立った活動はしていないのだけど、ウェブや雑誌でインタビューを受けたり、企業の内部セミナーで喋らせてもらったりと、仕事そのものはたくさん受けていた。執筆も、発表されたものでチキーダとの共著や思想地図β、そしてまだ刊行されていないものなども何か書いていて、まあ単著を出さなかった年としては例年並みの忙しさだったはず。ただ体調を崩したりしていたこともあって、後半は遅れた仕事を巻き戻すだけで精一杯になっていたのも確か。ずいぶんとブログも書かなかったので、いくつか去年やった仕事の話でもまとめておこうかな。 某自動車メーカー絡みでは、「若者のクルマ離れ」をネタに喋らせていただいた。もちろん僕が喋るので、「なぜ若者はクルマを買わないか」について喋ることはない。むしろ、「誰もが一家に一台のクルマを望んだのはなぜだったか」について解説することを通じて、もはやそれが当たり前ではなくなった時代に、

  • 今年も淡々とゲームを振り返る

    楽しめたかどうかとは別に、今年もっとも時間を使ったゲームのひとつ。これと『戦ヴァル2』のおかげで、今年はゲームの消化数が少なかった。まあそれはきっと幸福なことなのでしょう。内容的には、攻殻機動隊とマブラヴとエヴァを足して水で薄めた後にアクションゲームの上にかぶせた感じ。いや別にけなしているわけじゃなくて、「とても水準の高いオリジナリティのなさ」なのですよ。すごくよくできたアジアの新興国のコピー製品みたいというか。うーん。これでも褒め言葉なんだけどなあ。。。

  • ギャル演歌の世界へようこそ Part.2

    完全にノリで書いたのに、気づいたら速水さんの連載をはじめ、微妙な広がりを見せている「ギャル演歌の世界」。自分としては、批評的な距離感もなく、揶揄する意図もなく、ただ目の前にある風景――音楽があって、それが好きだというコがいて――について「わかるわかる!」の気持ちで書いたので、変に展開するのもどうかなと思ったのだけど、「オタク」の例を挙げるまでもなく、言葉の一人歩きは怖いし、最近某所でインタビューされたこともあったので、そこでの話を元にしつつ、簡単に。 まずギャル演歌の定義について。前のエントリでは「内向的でうじうじしていて、依存心が強く、当は男に引っ張ってほしいけど、でもそれが叶わないからがんばって一人で生きるんだってパターン」って書いたもんで、これが定義みたくなっているのだけど、さすがにざっくりしすぎなので、以下のような歌詞が特徴的な女性アーティストの楽曲、ということにしてみたい。 (

    ギャル演歌の世界へようこそ Part.2
  • 郊外とイエとナショナリズム

    東海道新幹線に乗るたびに、胸が締め付けられるような気持ちになる。田園の合間に立ち並ぶ個性のない住宅と学校と、コンクリート工場。都市部が近づくにつれ増えるロードサイドの飲店と、駐車場の広いスーパーと、大型ショッピングセンター。雨に濡れたアスファルトと、河川敷の水たまりと、どこまでも続く鉄塔。そうしたひとつひとつの風景を、「死んだ国土」と呼ぶ感性は、どうしても僕の中には見つからない。なぜならそれこそが、僕のふるさとの風景だからだ。 幹線道路を走る車の中にも、夕焼けを透かして見る校舎の教室にも、のっぺりとした郊外型住宅の中にともる灯りにも、その向こうに「人間」を抱えている。都市設計家やコミュニティ活動家が批判する凡庸な風景の中で、飯をって、仕事をして、教室の机に落書きをして、塾に通って、告ったり告られたりして、生きている人間がいる。きっとその家を建てた瞬間、そこには未来への希望があり、ローン

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