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historyとdesignに関するgitanezのブックマーク (37)

  • デザインという思考の型から逃れる術があるのか?: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 最近、デザインとは「思考の型そのものである」と考えるようにしています。 しかも、その思考の型は決して特別なものではなく、むしろ、現代に生きる僕たちはデザインという思考の型以外で考えられなくなっている。僕はそう考えるようになりました。 昨今、「デザイン」という概念の重要性が増し、誰もがその力を身につけようと方法論や事例をかき集める風潮がみられますが、この僕の観点からいえば、�むしろ僕らはデザインという型を使わずに考えることができないのだから、当に願うべきはデザイン力を身につけることではなく、いかにしてデザインという思考の型に無意識のうちに縛られている自分を自覚するか、デザインという思考を当の意味で認識対象にするかということではないかと思うのです。� 僕らはみな、デザイン力

    デザインという思考の型から逃れる術があるのか?: DESIGN IT! w/LOVE
  • コトをモノにした時代(デザインの誕生5): DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 1週間ほど前、「明るすぎる世の中で」というエントリーを書こうと思ったのですが、なんとなく書くタイミングを逸して書くのを忘れていました。 書こうとしたきっかけは2つあります。 ひとつは田中優子さんが『未来のための江戸学』(書評)の第4章の「江戸の照明」という「照明は明るいほうがいいのだろうか?」の一文ではじまる節で、江戸の夜の暗さの美しさに触れていたのが印象深かったから。 田中さんは、その節で、上田秋成の『雨月物語』も、吉原の太夫の薄化粧も、浮世絵も、江戸の暗さや薄暗い行燈の灯りゆえに美しかったと書いています。 カラーの挿し絵や浮世絵を見ることに関しては、問題ないどころか夜になって行燈の下で見るほうがいい。それを意識して印刷していたのではないか、とさえ思えるほど、浮世絵が美し

  • サブジェクトからプロジェクトへ(デザインの誕生4): DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 ルネサンスが主観と客観を発見し、マニエリスムが両者の裂け目を発見した。 前回の「主観と客観の裂け目の発見」では、その主観と客観の裂け目に対する自覚とその裂け目を埋めるために、はじめて各々が芸術的規則の創造者であろうとする人間の精神的態度がマニエリスム期に芽生えたことを指摘しました。 僕はここに「デザインの誕生」の瞬間を見ます。 客観的な世界と自分との裂け目を超えて、自らの内的構図によって外的世界を変えようとする意思とその具体的な実践。そこに僕自身が『ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術』で「いま自分たちが置かれた状況をすこしでも良くしようと思って仕事をしているのなら、その仕事はデザインなのです。あえて定義するならデザインとは、人間自身の生活、生き方、そして、生命

  • 主観と客観の裂け目の発見(デザインの誕生3): DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 前回の「ルネサンスの背景(デザインの誕生2)」の最後に、ルネサンスの中世からの変革の背景を支えた思想に、ネオプラトニズムがあったと書きました。 ネオプラトニズム(新プラトン主義)は、はじめ紀元3世紀頃にプロティノスによって開始され、ルネサンス期に再び盛んになった思想です。古代ローマ帝国の流れをくむ東ローマ帝国が1453年に滅亡にした際、多くの知識人が携えてきた古代ギリシャ・ローマの書物や知識がイタリアにもたらされます。中世のスコラ哲学ではアリストテレスの思想が重視されたこともあり、プラトンの思想(もしくはその思想は背景としたネオプラトニズム)はいわば忘れられた存在でした。それが東ローマ帝国からの古代の知の流入をきっかけにプラトンへの注目が集まることになる。 1463年にはマ

  • ディゼーニョ・インテルノ(デザインの誕生1): DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 僕の最近の関心事の1つは「デザインの誕生」です。 昨日、僕が解説を書かせてもらった、ヘンリー・ペトロスキーの『フォークの歯はなぜ四になったか 実用品の進化論』(書評)が出版されましたが、そこで丁寧に描かれた近代のデザイン・エンジニアリングによるイノベーションの歴史やそのメカニズムよりも、僕自身はそもそもイノベーション=デザインということが歴史上、新しい観念として誕生した瞬間にこそ興味をもっています。 現代の僕らにとってはその存在が当たり前になってしまっているデザインというものが、ほかの多くの発明品同様に歴史上のある時点から観念として浮上し、利用可能になったものであるということ自体をきちんと整理、理解してみたいと思っています。 僕のなかには「生産力よりも消費力」で書いたよう

  • フォークの歯はなぜ四本になったか 実用品の進化論/ヘンリー・ペトロスキー: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 以前から読みたかったヘンリー・ペトロスキーの『フォークの歯はなぜ四になったか 実用品の進化論』が文庫版にて復刊されます(1月9日発売です)。 そして、「読みたかった」この書評を発売前のこの時点で書いているのは、実は文庫版出版にあたり、光栄にも僕が巻末の解説を書かせてもらったからです。 ここに構想(デザイン)という考え方が登場する。Oxford English Dictionaryに英語としてdesignという単語が初出するのは一五九三年である。フォークはそんなルネサンスの文化の雰囲気のなかで登場し各国で使われるようになったのだ。それは単なる偶然の一致ではない。 ヘンリー・ペトロスキーの著作に関しては、このブログでも以前に『失敗学―デザイン工学のパラドクス』(書評)や『

  • 円環の破壊―17世紀英詩と「新科学」/M.H. ニコルソン: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 16世紀の終わりの日で古田織部が沓茶碗で従来の茶碗のスタンダードであった円相を破壊したのとほぼ同時代、西洋では17世紀初頭、ケプラーが惑星の楕円軌道を発見し、西洋思想のスタンダードであった円環を破壊している。 後期ルネサンス期に芽生えた新しい科学の動向が人びとの考え方・世界の見方に与えた影響を、ジョン・ダンやミルトンなどの17世紀英国の詩人や文学者の作品を読み解きながら考察する、M.H. ニコルソン『円環の破壊―17世紀英詩と「新科学」』を読んで、僕の頭に浮かんだのはそうした東西の時代の符号でした。 東西でほぼ同時に起きた、円の破壊と楕円の登場。 いずれの世界においても、円は古くからの伝統的な思想を象徴し、楕円は新しい思想を象徴していました。円から楕円への移行は東西でほぼ

  • 世界劇場/フランセス・A・イエイツ: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 思考を具体的な形にすること。世界をどのようなものとして見るか、さらにまた、それを「よりよい」状態に近づけるかについて熟考された思考の結果を再び、形として世界へとフィードバックする。それが来のデザインという活動の原型ではないだろうか? 世界を、宇宙を、そして、人間を注意深く観察し、それらの謎を思索し、よりよき状態を希求し、そうした活動の結果を具現化する技術を探る。そうした構想と呼ぶべき活動を背景にもつことをやめた、形ばかりのデザインを「デザイン」と名指すのはどうなのだろう? シェイクスピアのグローブ座(地球座)を含む、イギリスにおける後期ルネサンスの公衆劇場に焦点をあてながらルネサンス期の科学的/魔術的思考とその思考が生みだした世界=歴史を考察する『世界劇場』は、先に紹介し

  • 記憶術/フランセス・A・イエイツ: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 というのも、以前に僕自身が「このを読まないデザイン関係者なんてありえない」と書いた高山宏さんの『表象の芸術工学』ののなかで、高山さんが「今、デザインを勉強しようとする人間でイエイツの『記憶術』(1966)とか『世界劇場』(1969)とか名さえ知らないなんてこと、ぼくが絶対に許しません」と断言していたうちの一冊がこれだから。 デザインを勉強している人が最低でも名前くらいを知っておかなくてはいけないを、ここで紹介しない手はありません。 ちなみに、もう1冊の『世界劇場』も3分の2くらいは読み終えたので、そのうち紹介できるか、と。 結論から書いておくと、自分がデザインに関わる仕事や勉強をしていると思っている人は必読!の1冊だといえるでしょう。 記憶術の体系化の歴史を扱った一冊

  • モダンデザインの歴史をざっと概観する3: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「モダンデザインの歴史をざっと概観する」<1・2・3> 18世紀の混乱からスタートして20世紀の初頭に結実したデザインを生んだといえる近代のしくみがいまや綻びてきているのが現在です。 その綻びが指摘されはじめたのは早くも1960年代の終わりごろです。商業化に偏りすぎたデザインに対する批判だけでなく、モダンデザインが目指したユニバーサルデザインの標準化や規格化は、必ずその枠組みに収まらないマージナルなものを生み出してしまいました。 建築家のミース・ファン・デル・ローエが考案したユニット化された均質的な空間が積層し増殖する「ユニバーサル・スペース(普遍的空間)」という空間デザイン手法による鉄とガラスの建築は暑いアフリカやアジアの地域では明らかに適さないものでした。 小学校などで

  • モダンデザインの歴史をざっと概観する2: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「モダンデザインの歴史をざっと概観する」<1・2・3> とはいえ、すぐには自由な発想の新しいデザインが生まれるわけもなく、十九世紀のデザイナーたちは歴史主義と呼ばれる過去の歴史的様式を折衷したスタイルを提案していました。過去の遺産の継ぎ接ぎです。 そうした過去の遺産にすがることなく、まったく新たなデザインの方法が近代に生み出されるためには十九世紀末以降のイギリスでのウィリアム・モリスが主導したアーツアンドクラフト運動やフランスを中心に植物などの自然の形態を用いながらガラスや鉄などの新素材による造形の可能性を模索したアールヌーヴォーを待たなくてはいけませんでした。 アーツアンドクラフト運動やアールヌーヴォーは過去の様式を恣意的に用いる歴史様式、また、産業革命の結果として大量生

  • モダンデザインの歴史をざっと概観する1: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「モダンデザインの歴史をざっと概観する」<1・2・3> 膨大な視覚表現資料をもとにこの18世紀を中心としたアーリーモダン研究を広範かつ精緻に行い、イメージング・サイエンスという新しい研究分野を牽引しているバーバラ・スタフォードという人がいます。彼女はこの時代の視覚中心の文化に、現代の分析的思考によって様々な分野がバラバラの状態で孤立した閉塞感を突き破る力を見てとります。 スタフォードが書いたに『ヴィジュアル・アナロジー』という一冊がありますが、タイトルが想起させる通り、視覚表現がもたらすアナロジーの力に着目したです。そのの中でスタフォードはこう書いている。 アナロジー化の良いところは、遠くの人々、他の時代、あるいは、現代のさまざまなコンテクストさえ、我々の世界の一部に

  • デザインと文化、あるいは、フォルムとファンクション: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 前に『ふすま―文化のランドスケープ』を紹介した向井周太郎さんの『生とデザイン―かたちの詩学1』に収録されている「モダン・デザイン」という論考は、モダンデザインと言語、文化、機能と形といったものの関係を考えるうえで、読んでいて「なるほど」と思ったので、おすそわけ程度に。 詳しくは各自、をお読みになり、それぞれが思考を積み重ねてみてください。 アルファベットと西欧合理精神まず、向井さんは「モダン・デザインの思想は西欧の歴史そのものの固有性に内在する」という、当たり前ながら忘れられている問題をきちんと捉えることの重要を指摘しています。 前に柏木博さんのを紹介した際にも書いたことですが、モダンデザインには地域や民族、階級などに縛られずに人びとが自由にものを選べるようにするユニバ

  • Amazonアソシエイト 2008年注文数ベスト20: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 2008年最後のエントリーはこれで。 当ブログで今年注文の多かった、ベスト20を紹介しておきます。 昨年に引き続きランクインしているがあるのが結構驚きです。 Amazonアソシエイト 2007年注文数ベスト20 また、先日僕自身が「冬休みの読書におすすめする16冊の」でピックアップした今年の16冊とかぶるものが少ないというのは、ちょっとさみしかったりもします。 そんなことを感じつつも、まずは20位から17位。 ※書評名/著者名のリンクは当ブログ内書評です。 20位 脳と日人/松岡正剛、茂木健一郎今年のはじめに紹介したです。松岡さんの茂木さんの言葉のキャッチボールのアクロバティックさに驚いたものです。科学と日を同時に考えさせてくれた面白い一冊でした。19位 知の編

  • 東洋文化史/内藤湖南: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 原研哉さんとの対談集『なぜデザインなのか。』のなかで、イタリアで活躍しているデザイナーの阿部雅世さんは、デザインというものを日語に翻訳する際に「生活文化をつくる仕事」というふうに訳してみたらどうかということをいっています。そうしたデザインの仕事をするためには、前提として「質のいい暮らしをするためには、自分自身が、文化に支えられた生活をすることが必要」「自分の生活を支える哲学を豊かにすることがたぶん必要」ともおっしゃっています。 今年1年を振り返ってみると僕にとってこの1年というのは、まさにこの「生活文化をつくる仕事」ということを公私ともに考え実践してきた1年だったという気がします。 「公」というのは『ペルソナ作って、それからどうするの?』の出版や情報デザインフォーラム関連

  • 漢字―生い立ちとその背景/白川静: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 当に人間について知りたければフィルードワークだけでは足りません。だって、フィールドワークできない場所でも人間は生きていたのだから。そう、もはや僕らが足を踏み入れられない過ぎ去った過去にも。 過ぎ去った過去における人間を知る(特に人間中心のデザインの観点から)という意味では、例えば、『デザインの生態学―新しいデザインの教科書』で紹介されている深澤直人さんの「アクティブ・メモリー」という用語がおもしろいです。 アクティブ・メモリーとは、特定の個人における経験的な記憶を指すのではなくて、誰もが共通に知っているものの形を通じて身体に意識されないような形で残っている記憶を指します。例として出されるのは、毎日触っている電車のつり革の形は意識としてはよく覚えてはいなくても、ある日その形

  • 定信お見通し―寛政視覚改革の治世学/タイモン・スクリーチ: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 世界は設計されている。 もちろん、設計どおりに用いられているかは別にして。ただ、設計どおりに用いられないことがあるのは世界の設計に限ったことではありません。複雑な機能をもった製品なら、多くの機能が設計されていても利用されません。世界の設計もそれと大差ないでしょう。 重要なのは、使っている意識もなく使われている部分がもっともうまく設計されている点であるということ。気づかれないことで設計そのものが機能するということは大いにあります。ただ、その逆に誰もが目を向けることではじめて機能する設計もあります。 設計には「魅せる設計」と「意識もされずに使われる設計」があるということなのでしょう。そして、この両方の設計がうまくバランスされたとき、そのデザインは見事に機能します。目の前の問題を

  • 去勢された美的技術としてのファイン・アート: DESIGN IT! w/LOVE

    よく知られているように。そう。よく知られているのです。 よく知られているように、いわば実利的な技術と区別して美的技術fine artという概念が出現したのは18世紀のことだ。しかし実利的技術としてのapplied artがより明確な領域として示されるようになったのは、19世紀の前半、産業革命を背景にしていた。 こういう「よく知られたこと」も知らずに、アートとデザインの区別をどっちが上だとか下だとか言う無知はいったいなんなんでしょう。ものを知らなすぎです。 去勢うんぬんをいうのであれば、まさに18世紀に実利的な技術と区別された時点でアートは去勢されているわけです。その純粋さ(fineさ)こそ去勢の結果だということを知らないというのはどうなんでしょうか? 去勢された美術当初、産業革命が起こった頃、産業による製品は著しく美的な質に劣っていた。伝統的な製品のデザインを近代以前として捨て去ってはみた

  • 写真=意味無シの図像: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「まずはテーブルに載せてみなけりゃはじまらない!」の続編として。 そう。物事を見ること、描くこと、そして、理解することについて、図像学(イコノロジー)的な考察を。 18世紀後半から19世紀初頭の江戸時代において「写真」という言葉は、現在のように'photograph'の意味ではなく、写実的な遠近法で描かれた西洋画、もしくは、それらに影響を受けて国内で描かれた写実的な要素のつよい風景画を指す言葉として用いられていたそうです。 文晁の海岸線の風景画は蠣崎波響の『夷酋列像』同様、「写真」と評された。 ここでいう「文晁」とは谷文晁のことで、同時代の円山応挙らとともに「徳川時代の三大家」に数えられる画家です。 文晁、応挙の時代は、数少ないまでも西洋画が日に入ってきた時代です。同時に

  • まずはテーブルに載せてみなけりゃはじまらない!: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 仕事をしていてよく思うこと。 どうして議論をはじめる前に、手持ちの事実すべてをテーブルの前に開示してみることからはじめようとしないのか? とにかく事実を見ないで仕事をはじめようとすることが多すぎる気がします。どうして自分の頭のなかにあるものをいったん外に出して、まわりと共有することからはじめようとしないのでしょう。自分の頭のなかは他人のそれとおなじだと思っているのでしょうか。自分が「赤」だといえば、それを他人もおなじように「赤」だと感じてくれると思っているのでしょうか。 議論の箱、そして、問題解決のボックスに入れるべき事実が目の前に提示されていなければ、どういう箱をデザインしていいか、そもそも箱のデザインのための議論をどういう方向にデザインしていいかもわからないはずです。僕