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senseに関するgitanezのブックマーク (57)

  • フィギュラリズム: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 例えば、ある事業のアイデアが浮かんだときに、それが将来的にどのくらいの規模のビジネスになるかを試算する。そのとき、とうぜん、数字を使った試算をするわけですが、それを単なる数字としてみるか、自分の身体が腑に落ちて納得するような物質的なイメージとして感じとれるかでは、大きな差があると思っています。差があるというのは、事業が成功する確率が高いか低いかという意味で。 数字や抽象的な言葉をみて、物質的なボリューム感やかたちとして捉えることができるかどうか。さらに物質的な質量をともなった動きまで感知できるとさらによい。 フィギュラリズム。高山宏さんならきっと「かたち三昧」とルビをふるだろう、そんな身体能力。それって意外と大事なんじゃないか。最近、そう感じます。 測定することは悪いことじ

  • 方法だけではどうにもならない: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「例えば、フォトショップで画像の青みを消す方法を覚えたとします」と彼女は言いました。 昨日のある場所での話のなかででてきた言葉です。教育とか学習に関する話。彼女はこう続けました。 「でも、仕事に戻って、学んだ方法を役立てようとしても、画像をみて青みがかってることに気づかなければ、せっかく学んだその方法を役立てることはできない。誰かに青みがかってると指摘されなければ、自分では学んだ方法を使うことはできない」と。 まさにそのとおりです。問題解決の方法は、そもそも問題を発見する力がないと役に立ちません。彼女は「弁別」という言葉を使いましたが、違いを見分ける目、問題を通常の状態から切り離すことができる目がなければ、どんなに問題解決の方法を学んでも、それを使う場面は訪れません。 ペル

  • ブルーモーメントの時間。

    Type:フランスと南の島と温泉をこよなく愛す旅好き。ほっておくと勝手に旅に出る気ままなのほほんネコタイプ。 Avec:5slow

    ブルーモーメントの時間。
  • バタイユ/酒井健: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 バタイユは、生を個体の問題としてではなく、生そのものの連続性として扱う。 酒井健さんの『バタイユ』を読んで、いちばんつよく感じたのはそのことでした。 そして、おそらく僕がバタイユに惹かれるのもそこに要因があるのだろうと思います。 脱自、共犯関係、見世物として恍惚や笑いなどの情動をひきおこす供犠、主体の半壊状態を通して得られる個を超えた交流的な体験。 こうしたキーワードによって、個―個人、私企業、国家―の延命に重点が置かれる近代が忘れ去った、個を超えた全体としての生の連続性に注目し、それを近代の世に知らしめようとことばを紡ぐバタイユに、僕はつよく惹かれるのです。 バタイユは、技術および技術が生みだした物品に「物の力」を見て警戒していた。ちょうど「言葉の力」を警戒していたように

  • 人里離れた世界で感受性を養う: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 他人とのコミュニケーションに悩むくらいなら、いっそのこと、人間関係のことなど忘れて、いったんは誰もいない自分ひとりの世界に向き合ってみるのがよいだろうと思います。 そう思うのは、昨日の「やっぱり感受性が学ぶための基礎なんだろうな」でも書いたとおり、他人とのコミュニケーションに悩んでいる人の多くが、コミュニケーションそのものの能力以前に、人との関係性以前に、非人間的なもの、非生物的なものを含む世界との交感の基礎となる感受性のほうに問題があるだろうからです。 感受性というOSに問題があるのだから、いくらコミュニケーション力という個別のアプリケーションを機能させようとがんばっても自ずと限界が生じてしまいます。 その場合、やはり基に立ち返って、OSである感受性の改善を優先したほう

  • やっぱり感受性が学ぶための基礎なんだろうな: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 物事からなにかを感じとる力。 自分が感じていることを意識のうえでも受け止める力。 客観的な知識ではなく、自分で感じたことを信じる力としての感受性。 この感受性がいろんなことを学んだり勉強したり理解したりする上での基礎となるものなんだろうなと思います。 頭がわるいとかではなく、感受性がよわい「いま勉強中です」とか「いろいろ教えてください」とか口ではいいながら、いつまでたっても成長しない人がときどきいます。たしかにそういう人は勉強していたり、いろんな人に教えてもらったりしていたり努力はしているのですが、なぜかどこか決定的に飲み込みがわるいし、みると勉強の方向性や疑問の持ち方がズレていたりする傾向があります。 程度は極端にダメなのもあれば、ちょっとズレてるなという程度のこともある

  • 「わからない」を自分で引き受ければ他人の目を気にして焦る必要はない。: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 うーん。わからなかったら、わからないでいいじゃんと思うんだけどなー。 すくなくとも焦ってすぐにわかろうとしなくてもいいと思うんですよ。 わかるとかわからないとか所詮は個人の問題だと思っています。 いや、全部がそうじゃなくて、人間社会の仕組みとしての決めごと―たとえば試験の答えだとか、法律で決められてるやっちゃいけないこととか、待ち合わせの場所と時間とか―そういうのは、決まっていることをわかる必要があって、決めたことが1つなら答えは1つです。 でも、そういう決めごとの外にあるもの―たとえば他人の気持ちとか、誰かによって主張された内容とか、自然や日常の出来事をどう解釈するかとか―を、どう見るか、わかるかは所詮は、わかる側の個人的な問題でしかない。たとえ相手に「なんで、私の気持ち

  • 最近ちょっと疑問に思ったことを思い出した - もかりのデリケートゾーン

    最近、家族で、ある映画をみて、 「おもしろいね!」 と、3人で話していました。 わたしはたまたま、ネット上でそのレビューを目にしたのですが、その作品に対して、意味がわからないということに対しての評価も低かったことに、わたしはおどろきました。そう言われてみれば、(よく考えれば、意味はわからないなあ)とは、共感した点もありましたが、意味がよくわかるからといって、それがいいことなのかな?とも、思いましたし、わからなかったとしても、だめなのかな?とも思いました。 意味がわからないことの評価がそれぞれで、わからないことは、ダメだという評価もあるというのを、見た瞬間でした。もちろん、わたしたち家族が抱いた感情と同じような、評価もあり、わたしはどこか安心したのですが。 わたしも、意味のわからないものはきらいで、気持ちが悪いのですが、日常生活にさしつかえないものは、それほど気になるようなことはありません。

    最近ちょっと疑問に思ったことを思い出した - もかりのデリケートゾーン
    gitanez
    gitanez 2009/08/20
    僕が書いたあの記事自体、もかりさんの僕の本の書評を読んでインスパイアされた内容だったんですよ。
  • 古代人にとっての装飾: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「長い人類史のほとんどの時間の中で、デザインは豊饒の暗喩であり、人為の痕跡をうたいあげる装飾であった」とあったと述べる原研哉さんは、『デザインのデザイン』のなかで、かつての人類が装飾を必要とした理由を以下のように想像しています。 たとえば、中国の青銅器はその出現の当初より、渦巻き状の紋様によってびっしりと覆われている。この装飾はなんのためだったのだろうか。(中略)何も描かれていないプレーンな青銅器よりも、びっしりと渦巻きがほどこされたものの方が人々の注意を喚起する。なぜなら、高度な熟練による技巧と、膨大な時間に及ぶ人為の蓄積がそこに凝縮されているからである。それゆえに紋様の複雑さは独特のオーラを発しているように感じられる。青銅器は当時のハイ・テクノロジーであり、時の権威と密

  • うつわの裏の多様性: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 以前、「模様を生む力の衰え」でも紹介しましたが、日の器のソロエは、ウェッジウッドの器のようにセットで文様すべてが揃うようにはできていません。一見揃っているように見えても文様も形もバラバラだったりする。松岡正剛さんは「不揃いなのにソロイになっている」という言い方をしています。そして、それが「日の方法の秘密」だともいっています。 ところが、それに続けて松岡さんはこうも言います。 「現在の日はこれがうまくできなくなっている。世界のスタンダードに合わせて、何もかも同型・同質に揃えようとしすぎているし、ミニマルなシンプル・デザインが流行して、文様の扱い方が超ヘタクソです」(『神仏たちの秘密―日の面影の源流を解く』)と。 多様性を失った生活環境僕はこの「模様を生む力の衰え」、

  • それでも、デザインの核は装飾である。: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 すこし間が空いてしまいましたが、「デザインは装飾である、デザインする人に必要なのは美的センスである」というエントリーを書いたら、「装飾はデザインという行為の一手段に過ぎない」とか、「こればっかりは聞き捨てならない。『装飾』という言葉は違うと思う」といった反論がいくつかありました。 まぁ、ちょっといきなりあれだけを読むと誤解されるかもしれませんね。 でも、そもそも、どうして「装飾」という言葉にそんなに敵対視した感情が起こるのかがわからず、ちょっとびっくりでした。なぜ「装飾」という言葉をそれほどまでに拒否し、「一手段に過ぎない」なんて地位に落とし込めてしまうのか。「装飾」というのは、そんなにも嫌悪の対象になるものであることが驚きでした。 デザインとは問題解決? はい。もちろんで

  • どんなに拙い価値観でも、自分自身の価値観を育む努力を怠らないようにする: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 自分で爪弾くギターの音色、自分で作った料理の味、自分で描いた絵の出来ばえ。その音、その味、その色形を、自分自身で評価できなければ、それがうまくできたかどうかは判別できません。 音や味や色形がどうも自分の思った通りのものでなければ修正するし、なぜよくないかを考えてうまくやる方法を考えるのではないでしょうか。 自分の行為の結果としてのフィードバックを受け、人は自分の行為を反省し、その反省を次の行為のために活かすことができる。それはフィードバックを正しく評価する耳、舌、眼があって、はじめて可能になるループです。 言い換えれば、それは自分が何を求めていて、何のために行為を行っているかがわからなければ、自分自身の行為さえ評価ができないということでもあります。 結果の評価ができなければ

  • デザインは装飾である、デザインする人に必要なのは美的センスである: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 あれこれ逡巡してきましたが、結局、なんだかんだ言ったところで、 デザインの核となるものは装飾である と思うし、 そうであるがゆえに、デザインをする主体である、 デザインする人に最も求められるものは美的センスである と思うに至りました。 まあ、ある意味では遠回りをしながらも一般的に「デザイン」ということばを聞いてイメージするものに近いところに行き着くことができたというわけです(たぶん、「装飾」とか「美的センス」ということばの使い方は一般とはズレがあると思いますが)。 良いデザインとは、美的センスに優れた装飾性をかたちにした仕事であり、その結果としての人工物であるというわけで、自分の美的センスに自信がないからといって、そこから逃げて、あれこれ立派な理屈でその場をやり過ごそうとし

  • 眼の力、感性の声: DESIGN IT! w/LOVE

    昨日の「遠くの町と手としごと―工芸三都物語/三谷龍二」で紹介し足りなかった点をすこし。 眼の力について。 目利きがいかにものづくりを助けるかということについて。 そして、皆さんはものに触れた際の自分の感性の声が耳に届いているかということについて。 まず福井で建具屋さんをしていた横田さんという方の仕事について、著者の三谷龍二さんはこんな感想を述べています。 横田さんは勉強熱心で、作ることへの努力も人一倍なのですが、それにも増して、見ること、眼を鍛えることを大切にしている人だと思いました。お宅にうかがい、箪笥や匙のコレクション、愛用のメガネのコレクションなどを見せてもらいながら、古いものをよく見て歩いていて、古いものからよく学ばれている、と感心しました。 さて、ものを作っている皆さん、普段の暮らしでちゃんとものを見てますかー? 「古いものをよく見て歩いていて、古いものからよく学ばれている」。そ

  • 自分がいいと思うモノをつくれ!: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 ものづくりをする人がアンケート調査に頼ったり、ユーザーの意見を必要以上に気にするのをみて、たまにがっかりさせられることがあります。 それは完全に調査をする目的を誤解しています。 ユーザー中心だとか、人間中心だとかいいますが、別にそれはユーザーがどういうデザインを評価するかといった意見をきいて、ものづくりをしろなんていう話ではありません。「なんでもかんでもユーザーに聞けばよいってわけじゃない。」 それ以前に、ものづくりをする側が何をつくるのがいいと思うかという考えがなくてはお話になりません。それがないがゆえに、やたらとアンケートで人びとの声を聞きたがるし、ユーザーの評価を気にしすぎる。どっちがものづくりの主体なの?って疑問に思います。 他人の意見に左右される前に、自分がいいと

    gitanez
    gitanez 2009/07/02
    id:Sixeightさん 簡単な話です。僕は自分の本を「マニュアル本」として書いていないからです(読めばわかるw)。「マニュアル本に頼るな」と「本を味わう」ことをいっしょくたにしないように。
  • 物に意味を与える仕事(思いやりをもって): DESIGN IT! w/LOVE

    人の生活をなんらかの形で役だつ道具としての人工物と、それを利用する人のあいだをつなぐインターフェイスを設計するのがデザインの仕事です。このとき、インターフェイスには、人工物の内部機構と人間の頭のなかにつくられるモデルのあいだを取り持つ役割が与えられます。 とうぜん、そのインターフェイスを設計し実現可能にするのがデザインの仕事であるなら、その仕事をする人は、人工物の側の内部機構と人間の頭のなかのモデルの双方を同時に理解する必要があるでしょう。 もちろん、これはことばでいうほど、簡単なことではありません。特に「人間の頭のなかのモデル」は。 といっています。 もちろん、その場合、誰に対して意味を与えるか?が問題となります。 単純に考えるなら、それを利用するユーザーに対して意味を与える、という答えになるでしょう。 ただ、昨日の「プロジェクトの定義とデザインプロセス」というエントリーでも指摘したよう

  • 2009-06-28:武相荘再訪: DESIGN IT! w/LOVE

    武相荘って何?という方は、前回訪問時のエントリー「旧白洲邸 武相荘」に詳しいので、そちらを参照ください。 武相荘の冬と夏ちょうど半年ぶりくらいなので前回訪れたのは冬。季節が変わると、だいぶ印象も違いました。 玄関の写真をくらべると、こんな感じ。 左が1月。右が今日。 光の感じも違いますよね。 武相荘では季節にあわせて、室内の展示も変わるのですが、今日は夏らしく団扇や夏の着物、それから、ガラスの器などの展示が多かったです。 そこで沖縄ガラスの蚊取り線香用の器があったのが印象的だったんですが、併設された売店に売っていたので買ってしまいました。 蚊取り線香用に、というよりも、花など活けるのにちょうどよいかと思って。 夏らしさの演出今年の夏は、風鈴や団扇を用意して、夏らしい装いに、部屋のなかも変えようかと思っています。夏らしさの演出って必要ですよね。 『徒然草』第55段にもこうあります。 家の作り

  • 文字の官能性、書物としての身体: DESIGN IT! w/LOVE

    と書いたこととも重なってきます。 このあたりにピンとこないと、情報やコミュニケーション、発想やアイデア、そして、それらのためのデザインやデザインを通じて情報やコミュニケーションを扱う人びとの能力といったことがわからないだろうと思います。 その意味で、僕らは、もういちど、書物や文字というものの姿をしっかりと見直す必要がある。僕はそう思っています。 書籍の官能書籍も、文字も、当はもっと身体的で、芳しさや艶めかしさをもっているものだし、官能的であり呪的なものだと思います。 例えば、今福さんは『身体としての書物』のなかで、タイトルにもなっている「身体としての書物」ということを考えるにあたり、身体を英語のボディへと翻訳し、それをワイン用語のボディへと変換してつなげることで、さらにボディに対応する日語を探りながら「コク」へと辿りついています。そして、そのコクは漢字で書けば「濃く」であり、それが古語

  • もうひとつの日本への旅―モノとワザの原点を探る/川田順造: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「モノとワザ」。書店でこのキーワードに惹かれて、僕はこのを買いました。 買って読んでみて、買ってよかったなーと思いました。僕が触れてみたいと思っていたことが、このには書かれていたから。 このの著者、川田順造さんは文化人類学の大家、クロード・レヴィ=ストロースに師事した文化人類学者です。このでは、西アフリカ、フランス、そして、日という3つの地域を「文化の三角測量」をしながら、モノとワザの関係に潜む「身体技法」に着目し、グローバリズムや情報資主義によって失われつつある、各地域の文化に根差したモノとワザに焦点を充てています。 文化とその地域のモノとワザの関係性ということでいえば、例えば、著者の師でもあり、日文化に深い愛着と知識をもったレヴィ=ストロースは、西洋と日

  • 観念連合、類感呪術をつかった発想法・編集術: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 いま、ジェームズ・フレイザーの『初版 金枝篇』を読んでいます。 これがなかなかおもしろい。上下巻の分厚いなので、すこしずつ読み進めていますが、白川静さんや折口信夫さんが好きな僕にはとても興味深い一冊です。 巷では「肘掛椅子の人類学」と揶揄されることもある一冊ですが、そんなことはまったくもってどうでもいい。揶揄するなら、じゃあ、君らにこのすさまじい編集ができるの?と思います。 というわけで、内容もおもしろいのですが、その編集力がすごいなと感心させられながら読んでいるわけで、それで編集といえばということでちょっと気になって松岡正剛さんの千夜千冊をのぞいてみたら、こんなことが書いてありました。 フレイザーが見せた目眩く想像的編集とは、それを一言でいえば「観念連合」というものだ。