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ブックマーク / booklog.kinokuniya.co.jp (3)

  • 『国民語が「つくられる」とき-ラオスの言語ナショナリズムとタイ語』矢野順子(風響社) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋書店で購入 「国民語が「つくられる」とき」? いつの時代の話なの? 「ラオス」? どこにあるの? そう思ってくれるだけでも、著者、矢野順子は、救われる思いがするかもしれない。著者は、「あとがき」で、つぎのように述べている。「筆者の研究は、国際協力のような分野と比べると、今すぐラオスの役に立つようなものではないかもしれない。しかしこうして、日の人びとにラオスを紹介することもまた、お世話になった人びとへの恩返しになると信じ、今後も研究を続けていきたい。将来的には、ラオスに残っている内戦時代の資料の修復や保護にも携わっていけたらと考えている」。この著者の念いがわかる日人が多くなったとき、日も成熟した国際文化社会の一員になっていることだろう。 ラオスは、中国、ミャンマー、カンボジアとも国境を接するが、概ねタイとベトナムとに挟まれた北西から南東に細長い国で、タイとの国境はメコン川にな

    『国民語が「つくられる」とき-ラオスの言語ナショナリズムとタイ語』矢野順子(風響社) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG
    gnt
    gnt 2008/12/22
    「1975年まで30年にも及ぶ内戦の結果、自らのアイデンティティを証明する多くのものを失った人びとが、その「証し」を言語に求めているのである」
  • 文筆家・大竹昭子の書評ブログ�:�『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』内山節(講談社現代新書)

    →紀伊國屋書店で購入 「人の身体と生命を介して記憶する「みえない歴史」」 ずいぶん前にキツネについて調べていたことがある。といっても生きているキツネではない。お稲荷さんのキツネである。社の前に座っているキツネの石像に惹かれて写真に撮るうちに、それにしてもどうしてキツネなのだろう、と興味をもったのだ。取材するにつれて、東京都心でもキツネに化かされたり、キツネを神聖視する話がごく最近まであったのを知り、驚いた。 というわけでタイトルにそそられてこのを手にとったのだが、前書きを読んでキツネがテーマではないらしいとわかった。1965年を境に日全国から人がキツネにだまされる話が一斉に聞かれなくなった。それはどうしてか、1965年に日の社会の何が変わったのか、その謎を解いていきたいとある。 日社会の変化を象徴するものとしてキツネが挙げられているのであり、テーマは日人の自然観の変化なのである。

    文筆家・大竹昭子の書評ブログ�:�『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』内山節(講談社現代新書)
    gnt
    gnt 2008/02/18
    メジャーめな民間信仰の調査は道に迷い始めるとひどいことになるよね。
  • 哲学者、翻訳家・中山元の書評ブログ : 『ハイデガーとハバーマスと携帯電話』ジョージ・マイアソン(岩波書店)

    →紀伊國屋書店で購入 「ケータイ・モデル」 ケータイというのは奇妙な道具だとつくづくと思う。それは近さを遠さに変えてしまうものであり、遠さを近さに変えてしまうものだ。仕事の打ち合わせなどで相手がもぞもぞとケータイを取りだすと、気が殺がれていやなものだが、考えてみるとこれは近くにいるからといって、実際に「近い」わけではないことを相手に知らず知らずに知らせる手段ともなりうる。わたしはあなたと話をしていると、あなたは思っているかもしれないけど、実はあなたでない人と話し合っているのよと。 だから話している友人にケータイがかかってくると、とたんにその友人は「ここにいる人」ではなくなってしまうのだ。ケータイは人を遠い場所にさらってしまう。もちろん電話も同じ役割をはたしたのだが、受話器はでこにでもあるというものではなかったのだ。その質的な違いは大きい。 書はハーバーマスの『コミュニケーション的行為の理

    哲学者、翻訳家・中山元の書評ブログ : 『ハイデガーとハバーマスと携帯電話』ジョージ・マイアソン(岩波書店)
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