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ブックマーク / umiurimasu.exblog.jp (3)

  • 日本人はなぜクトゥルーを怖がらないのか : 族長の初夏

    最近、ちまちまとラヴクラフト全集を再読しているのですが、あらためて強く意識させられるのが、恐怖感についての日米文化の違いです。たとえばラブクラフトがさも自明のごとく使う「冒涜的」という表現の、いったい何がどう冒涜的なのか、まるでぴんとこないこと。また、クトゥルーや南極の〈古きもの〉がさほど怖いとも思えず、それどころか、むしろちょっとかわいいじゃん。などと愛着に近い感情すらおぼえてしまったりすること。こういった反応、恐怖の感じ方がひどく違うことについて、どこまでが個人の感性でどこまでが文化の差異によるものか、きちんと切り分けができたら面白かろうなあ、と思いながら読んでいます。 ラブクラフト作品での「冒涜的」という形容は、宗教上の教義と相容れないものごとだけでなく、普通でない、なじみがない、理解できない、ありえない、と語り手が感じる対象ことごとくに向かってつかわれます。キリスト教文化圏では、何

    日本人はなぜクトゥルーを怖がらないのか : 族長の初夏
    goldhead
    goldhead 2011/03/03
    ダンセイニ卿が好きでもラヴクラフトが読めないのはこのあたりに関係あるのかないのかそれ以前か。
  • 日本はいつから「未来」であることをやめたのか?(サイバーパンク的な意味で) : 族長の初夏

    「ブレードランナーやニューロマンサーの頃って未来の日がやたら流行ってたけど、あれってなんで廃れたの?バブルがはじけたから?」「いや、アニメやマンガがあたりまえになりすぎて目立たなくなっただけだろ」みたいなことをアメリカSF好きな人たちが言っています。日SFファンにとっても面白い話題なのではないでしょうか。で、少し訳したりしながら僕も考えてみました。米国のサイエンスフィクションはかつて、ブレードランナーからニューロマンサーまで、日に魅了されていた。 日のものはすべて、アメリカの小汚い美意識よりもクールで洒落ていて輝かしく見え、日は支配者となるべく運命づけられた存在だった。(中略) ウィリアム・ギブスンが「ニューロマンサー」の執筆中にブレードランナーを見に行ったというエピソードの中で、彼は、映画が描く未来のヴィジョンと彼の小説のそれがあまりにも似すぎていたことにショックを受け、も

    日本はいつから「未来」であることをやめたのか?(サイバーパンク的な意味で) : 族長の初夏
  • わずか6語の超短編SFいろいろ | 族長の初夏

    Wired: Very Short Stories ヘミングウェイにならって著名なSF・ファンタジー作家たちが「6語」という制限つきで書いた小説集がありました。クラーク、ル=グウィン、ギブスン、カード、ブリン他、メンバー豪華すぎです。いくつか選んで訳してみました。 【アラン・ムーア】 マシンを。偶然にも私は発明していた、タイム Machine. Unexpectedly, I’d invented a time 【デイヴィッド・ブリン】 真空衝突。 軌道分岐。 さらば、愛。 Vacuum collision. Orbits diverge. Farewell, love. 【ケン・マクラウド】 太陽光発電に切り替えた。太陽が新星化した。 We went solar; sun went nova. 【オースン・スコット・カード】 赤ん坊の血液型?人類さ、ほぼね。 The baby’s blo

    わずか6語の超短編SFいろいろ | 族長の初夏
    goldhead
    goldhead 2009/03/23
    Do Androids Dream of Electric Sheep? -Philip K. Dick
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