“ブギの女王”と呼ばれ、戦後の日本において一世を風靡した歌姫、笠置シヅ子。 1927年(昭和2年)、彼女は13歳で「松竹楽劇部生徒養成所」(OSK日本歌劇団のかつての養成学校・日本歌劇学校の前身)の受験に合格し、芸名・三笠静子として『日本八景おどり』で初舞台を踏む。 1938年、20代半ばを迎えていた彼女は東京に進出した松竹歌劇団に移籍。その頃の日本は戦時体制に入り、しだいに反米感情が増す中でジャズが敵性音楽として取締りの対象になり始める。 時を同じくして、彼女は戦後の歌謡界をリードすることになる作曲家、服部良一と出会うこととなる。いち早くジャズを歌謡曲に取り入れていた作曲家と出会ったことで、彼女の運命は大きく変わる。 服部良一によってコロムビア専属に迎えられ「ラッパと娘」「ホットチャイナ」などがリリースされるが、激しく踊り歌うシヅ子のステージは当局の目に留まるところとなり、マイクの周辺の