ブックマーク / www.tapthepop.net (131)

  • 大瀧詠一が初めて細野晴臣の部屋に入った瞬間、思わず発した言葉とは?

    細野晴臣と大瀧詠一がはじめて出会うのは1967年の春先のことだが、きっかけはもう一人の友人との出会いだった。 その前年の秋、立教大学のキャンパスにある待ち合わせ場所で、細野は指定されたベンチに座っていた。立教高校時代からの友人から、「経済学部におまえみたいに音楽にうるさいやつがいるんだ、紹介するよ」と言われていたからだ。 やがて友人に連れられてやってきた男は、ポツリと「中田です」と名乗った。それからお見合いのような形でボソボソと、探りあうような会話が始まった。 「いまどんなの気に入ってるの?」 「うーん、ポール・サイモンなんか、けっこう」 ――おっ、こいつはできるな。 「ちいさい秋みつけた」や「めだかの学校」「夏の思い出」などの作曲家、中田喜直の甥にあたる血筋に生まれた中田佳彦はギターが上手で、アソシエーションなどのソフト・ロック系にも詳しかった。 お互いの音楽への関心がわかって意気投合し

    大瀧詠一が初めて細野晴臣の部屋に入った瞬間、思わず発した言葉とは?
  • 大瀧詠一が後進のために残した貴重な財産~ラジオ番組『ゴー・ゴー・ナイアガラ』

    はっぴいえんどのメンバーとしてプロデビューする大瀧詠一は、バッファロー・スプリングフィールドの音楽がきっかけで、細野晴臣と松隆との出会いがあって1969年の秋にバンドを始めることになった。 そして日語のロックをなんとか確立しようと試行錯誤を重ねていた頃、アメリカではキャロル・キングが1971年のはじめにアルバム『つづれおり』を発表した。 今なお不朽の名作と語り継がれている『つづれおり』はアルバム・チャートで15週連続1位を獲得し、シンガー・ソングライター時代の旗手としてキャロル・キングは脚光を浴びていく。 ひと足先に成功を収めていたシンガー・ソングライター、ジェームス・テイラーはそのアルバムから「君の友だち(ユーヴ・ガッタ・フレンド)」をカヴァーし、シングル盤が全米チャート1位の大ヒットとなった。 さらにはR&Bシンガーのダニー・ハサウェイも、ロバータ・フラックとのデュエットで同じ曲を

    大瀧詠一が後進のために残した貴重な財産~ラジオ番組『ゴー・ゴー・ナイアガラ』
  • 痛快でスピーディなクレージーキャッツの”変な歌”④植木等の「ハイそれまでョ」

    クレージーキャッツの3枚目のシングルは植木等の二枚目風キャラクターを活かして、ムード歌謡風のゆったりした歌い出しで始まる。 もともとジャズ・ギタリストで、ジャズ・ヴォーカルも学んだ格派だから声がよく響く。 ところが伸びやかでつやのある美声によるラブソングは、途中でブレイクした途端に歌詞が急展開、曲調もガラリと変わってしまう。 そしてテンポも一気に早まり、ツイストのリズムに乗って最後のオチへとつき進んでいく。 クレージーキャッツの研究家であった大瀧詠一は「ハイそれまでョ」がステータスを築いたと評価し、サウンドとしても3分間のミュージカルとしても、クレージー・ソングにおける第1期の頂点だと語っている。 作曲と編曲を行った音楽家の萩原哲晶は大瀧との対話のなかで、この曲が生まれた経緯についてこう述べていた。 植木さんていうのは、もともとマトモな歌を勉強してきたんだから、多少はそういうのもやりたい

    痛快でスピーディなクレージーキャッツの”変な歌”④植木等の「ハイそれまでョ」
  • スーパースターの沢田研二による膨大なる音楽映像の記録

    のエンターテイメントビジネスにおいて、レジェンドと呼べる存在として筆頭にあげられるのは、1971年のソロ・デビューから50周年を迎えた沢田研二だろう。 彼はソロになる前、GSのザ・タイガースの時代から「ジュリー」の愛称で呼ばれて、若い女性の間では圧倒的に人気があった。 それから日のエンターテイメント界において、50年間にわたってトップの座を維持しながら、休むことなく活動し続けてきたスーパースターである。 4月28日に発売されたソロ・デビュー50周年記念DVD BOX『沢田研二 TBS PREMIUM COLLECTION』を観ると、彼が成し遂げて来た活動の記録があまりにも膨大で、そのことに圧倒された。 7枚のDVDには合わせて488分、およそ8時間の映像作品が収録されていたのだ。 『8時だョ!全員集合』や『ザ・ベストテン』などの人気番組から、久世光彦がプロデュースした伝説の『セブンス

    スーパースターの沢田研二による膨大なる音楽映像の記録
  • 中島みゆきとちあきなおみの出会いから生まれた「ルージュ」のさまざまなる味わい

    研ナオコの「あばよ」が発売になったのが1976年9月25日、オリコンのヒットチャートで1位を獲得したのは11月15日だった。 「あばよ」は彼女にとっては最大のヒット曲となっただけでなく、歌手として生きていく道を約束する楽曲になった。 作詞作曲したのはまだデビューして間もないシンガー・ソングライターで、当時はまだ札幌に住んでいた24歳の中島みゆきだった。 はじめて歌謡曲の歌い手に提供した楽曲が大きな成功を収めたことで、彼女にはソングライターとして一気に注目が集まった。 しかし歌謡曲の作家ではないために、どこへどのようにアプローチすれば楽曲を書いてもらえるのかが、芸能界の内側にいる人にはわかりにくかったらしい。 その当時の歌謡曲にはないセンスの「あばよ」を聴いて、ちあきなおみは作詞作曲した中島みゆきに興味を持った。 そして中島みゆきにとっても、ちあきなおみという歌手は以前からどこか気になる存在

    中島みゆきとちあきなおみの出会いから生まれた「ルージュ」のさまざまなる味わい
  • これが本当の80年代サウンド⑫〜忘れられた洋楽ヒットにもう一度スポットライトを

    これが当の80年代洋楽ヒット・第12回 80年代の洋楽をまとめたネットコンテンツやラジオ番組や雑誌には、いつもお決まりのアーティストやヒット曲だけがラインナップされている。それは同時代のコンピレーションがリリースされても同じこと。今回の企画はそんなありきたりの選曲ではなく、聴くだけで(観るだけで)「ああ! いた!! あった!!」と歓喜するようなアーティストやヒット曲を思いつくままに集めてみた。題して「これが当の80年代サウンド」。そろそろマドンナやマイケル・ジャクソンの呪縛から解放されよう。ドライブや通勤タイム、懐かしの音源探しに活躍すること間違いなし。(選曲/中野充浩) シャカタク「Night Birds」(1982年/全英9位) 1980年代初期、日でも大ブームとなったシャカタク。個人的な話だが、中学生になって仲良くなった音楽一家の友人がいて、彼が『Night Birds』や『I

    これが本当の80年代サウンド⑫〜忘れられた洋楽ヒットにもう一度スポットライトを
  • 細野晴臣の言葉から生まれた星野源の日本語ポップス 〜過去と未来を繋いだアルバム『Pop Virus』〜

    2019年のCDショップ大賞を『Pop Virus』で受賞した星野源は、2016年の『YELLOW DANCER』に続く2度目の栄冠となった。 このアルバムは2018年12月にリリースされて4週連続チャートの1位を記録し、まさに2018年を代表する音楽の一つになった。 『Pop Virus』には新しいポップスを作り出そうとする星野の挑戦と音楽への愛情、そして日語のポップミュージックを作り上げた先駆者たちへの敬意が込められている。 星野は2015年にアルバム『YELLOW DANCER』で自らのルーツであるブラックミュージックのエッセンスを、日語のポップスとして表現して高い評価を得た。 ここで多くのリスナーに受け入れられたことで、星野はさらに海外音楽を取り入れながらも、より日人の心に響く音を追求し始めている。 そんな時に星野が参照にしたのが、プロとして半世紀にわたってキャリアを重ねて

    細野晴臣の言葉から生まれた星野源の日本語ポップス 〜過去と未来を繋いだアルバム『Pop Virus』〜
  • 追悼・橋本治~仮面をつけることを知らない山口百恵によって「ひと夏の経験」で表明されたもの

    1974年の夏に「ひと夏の経験」が発表されると、オリコンのチャートでは最高3位になり、デビュー1年目にして山口百恵にとって最大のヒットとなった。 その一方で「歌の意味が分かっているのか」「歌が下品だ」「不良少女の歌」などいう非難、あるいは苦情や批判がマスメディアに取り上げられて、バッシング的な扱いも見られるようになった。 しかし、山口百恵はキワモノ的だと見下されても、決して萎縮したりすることはなく、女の子の微妙な心理を自分の中で確認しながら唄うことで、表現者としての成長を遂げていく。 もちろん無意識だったわけではなく、彼女の中では以下のように自覚されていた。 確かに歌として見た場合きわどいものだったのかもしれないのだが、歌うにつれ、私の中で極めて自然な女性の神経という受け入れ方にできるようになっていた。もちろんその頃はまだ想像の域を脱してはいなかったのだが、それでも女の子の微妙な心理を、歌

    追悼・橋本治~仮面をつけることを知らない山口百恵によって「ひと夏の経験」で表明されたもの
  • 松重 豊 スペシャル・インタビュー【前編】パンクからはじまった音楽遍歴と、音楽でつながる家族の絆を語る

    ドラマ『孤独のグルメ』をはじめ、テレビ映画、舞台と八面六臂の大活躍をみせる俳優・松重豊さん。実は無類の音楽好きだってご存知でしたか? 松重さんがパーソナリティを務めるラジオ番組『深夜の音楽堂』(Fm yokohama・毎週火曜深夜0:30より放送中)は、T字路s、Rei、cero、片想い、NakamuraEmi……などなど、TAP the POPでも紹介してきた気鋭のアーティストたちを次々にゲストに招き、ディープな音楽談義を展開。流行に流されない芯のある音楽を毎回たくさん紹介している、最近では珍しいほどに骨太な音楽番組なんです。 自分を育んだルーツにある音楽を大事にしながら、50代半ばを超えた現在も、新しい音楽を貪欲なまでに漁り続けている松重豊さんは、TAP the POPが考える理想のリスナー像だ! ということで、サイト開設5周年を記念してスペシャル・インタビューを敢行。ラジオ番組収

    松重 豊 スペシャル・インタビュー【前編】パンクからはじまった音楽遍歴と、音楽でつながる家族の絆を語る
  • NYのシェイ・スタジアムのマウンドで日本初の大リーガーに歌われた「上を向いて歩こう」

    1964年9月1日はニューヨークのシェイ・スタジアムで、史上初の日人大リーガーが誕生した記念日である。 サンフランシスコ・ジャイアンツの「マッシー・ムラカミ」こと村上雅則は、南海ホークスの鶴岡一人の目に留まり、鶴岡から「ウチへ入ったらアメリカに行かせてやる」と口説かれて、高校野球の名門だった法政二高在学中に南海と契約を結んだ。そしてプロ3年目の1964年の春に野球留学で、サンフランシスコ・ジャイアンツへ派遣された。 南海はベースボールの場であるアメリカに選手やコーチを派遣する試みを、その前の年から始めていたのだ。そして2年目となる野球留学の選手に選ばれたのが村上雅則投手、高橋博捕手、田中達彦内野手だった。 送り出す球団側はこの時、それほど大きな成果を見込んでいたわけではない。というのも村上雅則がわずか3ヶ月間、ルーキーだった二人は1年間の期限付き留学だったのである。 アメリカの選手たち

    NYのシェイ・スタジアムのマウンドで日本初の大リーガーに歌われた「上を向いて歩こう」
  • ペーパー・ムーン〜9才のテータム・オニールが父親と共演したロードムービーの名作

    『ペーパー・ムーン』(Paper Moon/1973) 『ラスト・ショー』(1971)や『おかしなおかしな大追跡』(1972)で成功を収めたピーター・ボグダノヴィッチ監督のもとには、ハリウッドからの仕事が殺到していた。次作はジョン・ウェイン主演の大掛かりな西部劇。そんな時、少女を主人公にしたジョー・デヴィッド・ブラウンの小説『アディ・プレイ』(Addie Pray)の映画化が持ち込まれる。多忙を極めるボグダノヴィッチは断ることにした。 しかし、ウェイン映画が頓挫してしまい、話が再浮上。ブレーンからテータム・オニールという9才の女の子を勧められる。そこでボグダノヴィッチは前作で息の合ったライアン・オニールを少女の相手役に起用することにした。何と言ってもテータムの父親だからだ。ライアンは『ある愛の詩』(1970)でスターになっていて知名度も抜群ときている。 それでもテータムに当の演技力がある

    ペーパー・ムーン〜9才のテータム・オニールが父親と共演したロードムービーの名作
  • アレンジャーの本質は「音楽の料理人」であると述べた萩田光雄の出世作「木綿のハンカチーフ」

    太田裕美の代表作になった「木綿のハンカチーフ」は当初、『心が風邪をひいた日』というアルバムの中の1曲として誕生したものだった。 しかしレコーディングの段階になって、スタッフたちの間で「いい曲だ」「シングル向きだ」と盛り上がったという。 2018年6月11日に刊行された「ヒット曲の料理人 編曲家萩田光雄の時代」(リットーミュージック)のなかで、萩田光雄がアレンジしたときのことをこう振り返っている。 この曲は松隆さんが書いてきた歌詞が4番まである長いもので、しかもストーリーになっているため、京平さんもテレビをつけるのに苦労した、という話は有名だ。 私もアレンジを施す段階で「長い!」と思ったが、何とかスピード感を出すために、いろいろと工夫をしている。 例えばイントロのベースは4拍子を刻んでいるが、ギターのフレーズは「ズタタ、ズタタ、タタ」と3拍フレーズになっている。 ギターとベースの拍子が微妙

    アレンジャーの本質は「音楽の料理人」であると述べた萩田光雄の出世作「木綿のハンカチーフ」
  • ルイ・アームストロングが美空ひばりに残した手紙とレコード

    美空ひばりの家には、大切に保存されていた古いジャズのLPレコードがあった。 そこにはジャズの王様と言われたアーティスト、ルイ・アームストロング(愛称・サッチモ)のサインが残されていた。 敬愛する日の歌の女王、ひばりへ 神のめぐみと歌の心がいつも、あなたの上にありますように ルイ・アームストロング サッチモが生涯最大のシングル・ヒットを経験したのは、すでに60代になっていた1964年のことだった。 ブロードウェイ・ミュージカル「ハロー・ドーリー!(Hello, Dolly!)」をレコーディングすると、ヒットチャートの1位に躍り出たのである。 その年のアメリカでは2月から4月までの3ヶ月間、全米チャートがビートルズによって独占されるという前代未聞の状態にあった。 1964年2月1日に「抱きしめたい」が全米1位になってからのビートルズ人気は、空前の勢いがあって4月4日には1位の「キャント・バイ

    ルイ・アームストロングが美空ひばりに残した手紙とレコード
  • ニューオリンズ音楽から生まれた大滝詠一の「福生ストラット」は、ウルフルズの「大阪ストラット」によって全国に知られた

    1975年5月30日に発売されたセカンド・アルバム『NAIAGARA MOON(ナイアガラ・ムーン)』を発表した頃の大瀧詠一は、「びんぼう」や「福生ストラット」といったリズミックでファンキーな日語の楽曲に挑んでいた。 その頃にデビュー前の山下達郎らとともにニューオーリンズ音楽を研究しつくすという、誰もやったことのない試みに没頭していたのは、1973年にはっぴいえんどでアメリカ録音を体験した影響からだった。 その結果、ニューオリンズ・ファンクの傑作が誕生したといえる。 『NAIAGARA MOON』に収録された「福生ストラット(Part Ⅱ)」の歌詞は、通常の歌の概念を越えてなんとも短いものだった。 これだけの歌詞を繰り返しながら最後に転調のパートが出てくると、そこからはJR青梅線の「中神」「昭島」「拝島」「牛浜」と駅名が続いて最後は「福生」で締める。 銀座や新宿などの東京ソングに比べると

    ニューオリンズ音楽から生まれた大滝詠一の「福生ストラット」は、ウルフルズの「大阪ストラット」によって全国に知られた
  • ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画「ヴェニスに死す」から題材を得て誕生した中森明菜の「少女A」

    中森明菜のセカンド・シングルとして「少女A」が世に出て注目を集めたのは、1982年7月28日のことだった。 広告業界でコピーライターとして働きながら作詞の仕事を始めた売野雅勇は、まだ駆け出しの身であったが、アンテナ感度の鋭い大瀧詠一などから注目を集めていた。 同じ年の2月に発売された『機動戦士ガンダムⅢ』 の主題歌「めぐりあい」は、売野の才能にいち早く気づいた作曲家の井上忠夫が自分で歌って、初のヒットをもたらしてくれた。 売野はその頃に作詞家として契約していた事務所で、スタッフから1枚のチラシを渡されてこう言われた。 ともかく目立つものを書いて下さい。前に書いた、シャネルズだって、河合夕子だって、普通じゃないですから。自分が面白がって書いたら、いい作品になると思います。 ワーナー・パイオニアが力を入れて売り出していた新人の中森明菜は16歳、売野はひとまずコンペ用に作品を書いてみることにした

    ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画「ヴェニスに死す」から題材を得て誕生した中森明菜の「少女A」
  • マネー・ショート〜“リーマンショック”を予期した4人のアウトローたちの葛藤

    『マネー・ショート 華麗なる大逆転』(The Big Short/2015) ジェイ・マキナニーが1984年に発表した(日では1988年)、ニューヨークを舞台にした小説『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』(高橋源一郎訳)を覚えているだろうか。出版社に勤めるコカイン漬けの主人公がランチに出ようとすると、酒びたりの伝説の文芸編集者につかまるくだりがあった。そしてマティーニ片手に真っ昼間からこう言われる。 経営学で修士号を取ろうと思ったことはないのかい? 何も実業界に入らなくちゃいかんと言ってるわけじゃない。それについて書いちゃどうだと言ってるんだ。現代のテーマはそれさ。ビジネスの何たるかが分かってる奴が新しい作品を作るんだ。ウォリィ・スティヴンスは「金には詩的なところがある」って言っていたよ。もっとも彼は自分のアドヴァイスを守らなかったがね。「芸術は貧乏くさい屋根裏部屋からしか生まれない」な

    マネー・ショート〜“リーマンショック”を予期した4人のアウトローたちの葛藤
  • ホームレスと間違えられてスタジオに入れなかったトム・ウェイツのテレビ出演

    『マイク・ダグラス・ショー』は、1961年から約20年近くに渡ってアメリカで放送された人気トーク番組だ。 その番組ゲストにトム・ウェイツの名が挙がったのは、1976年のことだった。 番組のディレクターを務めていたドン・ロイ・キングは、3年前にニューヨークのナイトクラブで観たトムを鮮烈に覚えていた。 こいつはイケる、と私は思った。 その男は酔いどれの路上生活者になりきっていた。 ブルドーザーみたいなダミ声とろれつの回らない舌で隠喩をちりばめ、意識の流れならぬ“半無意識の流れ”を垂れ流した。 トムの名が挙がったきっかけは、テレビ局にレコード会社から新作『スモール・チェンジ』が送られてきたからだった。 しかし、ドン以外のスタッフは誰もトム・ウェイツを知らなかった。 1973年にデビューしたトムだが、アルバムはチャート100位以内に入ったこともなく、熱心な音楽ファンの間で知られる程度の知名度しかな

    ホームレスと間違えられてスタジオに入れなかったトム・ウェイツのテレビ出演
  • フニクリ・フニクラ〜あの“鬼のパンツ”の原曲はイタリアで生まれた世界最古のコマーシャルソングだった!

    節分(豆まき)のシーズンになると、子供番組や幼稚園で“季節の歌”として唄われる定番曲として愛され続けているこの「鬼のパンツ」。 もともとはNHKの子供向け番組から広まった替え歌である。 原曲は「フニクリ・フニクラ」という、1880年に作曲されたイタリアの大衆歌謡ソング(ナポリ民謡)だったという。 このユーモラスな歌詞(替え歌)を書いたのは一体誰だろう?と様々な資料を調べたところ…JASRACのデータベースでは“作詞者不詳”となっている。 一説によれば、NHK初代“うたのおにいさん”として知られる田中星児が作ったのでは?とも言われている。 田中星児といえば、1976年に「ビューティフル・サンデー」の日語カヴァーを大ヒットさせたことでも有名だ。 彼は歌手としてだけではなく、自身で作詞作曲を手がけるシンガーソングライターとしても活躍していたようで、主にNHK教育番組向けの曲を数多く残していると

    フニクリ・フニクラ〜あの“鬼のパンツ”の原曲はイタリアで生まれた世界最古のコマーシャルソングだった!
  • オッペンハイマーと湯川秀樹がすがったひとりの被爆僧侶

    (前編はコチラからどうぞ) ♪ どうしたら可愛い子供を オッペンハイマーの死の玩具から 守ることができるのか ♪ ロバート・オッペンハイマーは、第二次世界大戦当時、マンハッタン計画をリードし、原爆の父と呼ばれた物理学者である。 オッペンハイマーは、スティングが移り住んだニューヨークで1904年に生まれている。使うことが許されないほどの兵器を作り、戦争を無意味なものにするという彼の夢が悪夢に変わった瞬間から、彼は罪悪感に苛まれていた。 「科学者は罪を知った」と彼は語ったが、彼がどれほど後悔しようとも、世界は新たに、エドワード・テラーという水爆の父を作ろうとしていた。 彼は水爆反対運動に情熱を傾ける。だが、彼、及び彼の周辺がジョセフ・マッカーシーの赤狩りの影響で大きな打撃を受けることになった。 彼のキティ、そして実弟のフランクは共産党員であった。そしてオッペンハイマー自身も学生時代、共産党

    オッペンハイマーと湯川秀樹がすがったひとりの被爆僧侶
  • ドナドナの真実〜幾度となく迫害されつづけてきたユダヤ人たちの記憶

    荷馬車の上に子牛が一頭 ロープにつながれ横たわってる 高い空…ツバメが一羽 楽しそうに飛び回る 日では「ドナ・ドナ(またはドンナ・ドンナ)」として知られいるこの悲しげなメロディー。 原曲は1938年に二人のユダヤ人によって書かれたという。(楽曲の出版登録は1940年) 当初、タイトルはイディッシュ語で「Dana Dana (ダナダナ)」と表記されていた。 イディッシュ語とは、現在イスラエルをはじめ世界各地のユダヤ人によって使用されている言葉で、そのルーツは昔フランスからドイツ移住したユダヤ人たちが習得した言語にあるという。 歌のクレジットには、作曲:ショロム・セクンダ(ウクライナ生まれのユダヤ系アメリカ人)作曲:アーロン・ゼイトリン(ベラルーシ生まれのユダヤ系アメリカ人)と記されている。 当時のアメリカは、第二次世界大戦の勝利で経済的にも豊かで世界の中心だった。 それに伴いミュージカル

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