高田橋が架橋される前は渡船によって結ばれていました。 古くは、約1km下流にあった望地地区と六倉を渡す六倉の渡し(望地の渡し)が使われていましたが、大山参りが盛んになるとともに、田名廻り八王子通大山道が通る久所~小沢にも渡しが通るようになった言われています。 大正時代にはいり、大正4年、11年、12年と洪水や老朽化による船の破損が続き不便を強いられたことから、大正13年には周辺の愛甲郡高峰村、中津村、愛川村(以上、現・愛川町)、高座郡田名村(現・相模原市中央区)が協議を開始しました。
高田橋が架橋される前は渡船によって結ばれていました。 古くは、約1km下流にあった望地地区と六倉を渡す六倉の渡し(望地の渡し)が使われていましたが、大山参りが盛んになるとともに、田名廻り八王子通大山道が通る久所~小沢にも渡しが通るようになった言われています。 大正時代にはいり、大正4年、11年、12年と洪水や老朽化による船の破損が続き不便を強いられたことから、大正13年には周辺の愛甲郡高峰村、中津村、愛川村(以上、現・愛川町)、高座郡田名村(現・相模原市中央区)が協議を開始しました。
橘樹郡宮前村(現在の川崎市宮前区)付近までは後の溝口・渋谷方面とほぼ同じルートですが、ここから東へ中原町を経て多摩川を渡り、等々力、柿木坂、目黒競馬場付近を通り省電目黒駅へ向かいました。 東京府内はほぼ目黒通りに沿ってルートが設定されたようです。 免許申請にあたり神奈川県庁が添付した申請内容に関する調査書によると、道路交通を除く交通機関の未発達な沿線地域において、当路線の完成は沿線住民の便は大きく、相模川の砂利を直接東京へ搬出することは極めて有意義であるとしていました。 一方で、東京横浜電鉄線(目黒~丸子多摩川~神奈川方面)が既に存在しており、小田原急行鉄道が荏原郡碑衾村柿木坂(現・目黒区柿の木坂)~横浜線長津田駅方面で、玉川電気軌道が目黒町中目黒~玉川村瀬田(現・世田谷区瀬田)が敷設免許を提出しているなかがで勝算確実とは言い難いとしてます。 このほかに相模川から搬出した砂利の荷下ろしの便
第1部 相武電鉄創設まで 2章.大正愛甲郡記 1.大正末から昭和初期の愛甲郡 大正末期の愛甲郡は、現在の厚木市と愛川町、清川村を範囲とし、1町13村が所属していました。郡全体の45%を森林に覆われるこの地域の総人口は6,000名程度、全人口の70%近くが農業により生計を立てていたそうです。 [ exp ] 2.当時の愛甲郡の産業 愛甲郡の産物として酒や醤油などがありますが、やはり第一に挙げるとなると生糸を用いた製糸となるでしょう。 ① 農業 最も多く人々が従事しており、郡内において第1位の産業と言われていました。耕地としては田地が145,861反、畑地が380,735反ととなり、厚木町を除いて畑地の割合が高くなっています。 しかし、当時の経済状態や都心部への人口流出などにより、労働力不足や賃金の高騰、生産量の減少を引き起こし、農家を圧迫していました。その後、家畜を労力としたり機械化を進める
第3部 夢を継ぐもの、伝えるもの 3章.その後の鉄道計画 ~ 戦後編.多摩ニュータウンの鉄道の変遷 1.小田急城山線計画 終戦から3年後の昭和23年(1948年)、東京急行電鉄の下に統合されていた東京都南西部と神奈川県下の私鉄路線は、集中排除法の施行により、小田急電鉄、京浜急行電鉄、京王帝都電鉄、新生東京急行電鉄と分離し、相模鉄道や江ノ島電鉄などといった路線も独立した経営を行うようになっていきました。 昭和33年(1958年)、小田急電鉄は小田原線鶴川駅(東京都町田市)を起点にし、町田市図師、横浜線矢部駅、相模原市上溝田尻地区、田名及び大島を経由し、津久井郡城山町西部(現・相模原市緑区城山付近)へ至る21.4Kmの「城山線」の免許申請を行います。 第1区間として鶴川~星が丘間、第2期区間として星が丘~城山間を順次建設し、昭和36年度までの全線開通を目指したこの計画では平均速度31.4~38
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